人のぶんまで責任を持つのは、難しい。

 

 

 

最低限、自分がやると決めたことには責任を持っているつもりだ。

 

 

 

しかし、それも怪しいときはよくあって、なぜなら世の中には自分一人だけが負えばいい責任なんてものはないからだ。

 

一念発起して、一人で近所のゴミ掃除を始めたとしても、そのゴミを回収したり処理したりする人がいるから可能なことであり、万が一自分がゴミと思って拾ったものが実は危険物で、これを回収した人が大ケガをしたときに責任を取れるか、というとあやしいものだ。

 

まして、自分以外の人の行動やその結果としての責任まで持つことができるのか、というと、これはまあ到底不可能なのだろう。

 

不可能なんだが、しかしそれじゃ何も話が進まないから、ということで、なんとなくみんな、何かの責任が誰かにあることにして、簡単には決めきれないことを決めてしまって、本当はその責任なんてものはそれぞれがちょっとずつ持ち合っていたり、あるいは誰も背負い切れるものじゃないのを気づいてないふりをしているだけなのである。

 

普段はそれでいいけれど、災害のように誰も責任なんて果たせない事態が起きたとき、あ、そういや本当は今の状態に対して責任を全部背負える人なんていなかったよな、とちゃんと思い出せるかどうか、そこが大事な気がする。

 

人の力じゃどうにもならない自然の脅威が大暴れした時、これはあいつのせいだとか、あいつらのせいだとか、そりゃまあそう考えれば気持ちは楽になるけれども、だからといって何か事態がすぐに良くなるわけではないのである。

 

とりあえずは各自が目の前で起きていることについて、自分ができることをやる、それしか本当の解決方法はなくて、「ここにはいないが、どこかに絶対にいるはずの黒幕」に向かって呪いの言葉を吐き続けるヒマがあるなら、ひとつでも周りに落ちている屋根瓦を拾ったり、まだ電気が来ていない家庭の困りごとを聞いて回ったほうが早いのだ。

 

ぼくは別に何もかもを自己責任でやろうぜ、みたいなことを言いたいわけじゃなくて、むしろ、あらゆる物事に対して、人は何一つ責任なんて持てない、ということを言いたいのである。

 

もちろん、責任なんて持てないから、何もかもを放棄すればいい、ということでもない。

 

責任なんて持てないし、何かの義務なんてのを課されるのもイヤだし、そもそも何者にも拘束されずにずっと自由で生きていたい。

 

ずっと自由で生きていたいからこそ、そのために最低限必要だと思うことぐらいは自分でなんとかしておきたいと思うし、場合によっては他の人のぶんも背負わなくちゃ仕方がないな、というときもあるし、それは責任というよりも、むしろ自分が自由で生きていたいという限りなく自己中心的な動機から出てくるものだと思う。

 

もうそろそろ、ぼくらは法律とかルールとか暗黙の了解とか、そういうものに頼るのじゃなく、自分がどこまでも自由であり続けるために、その場その場で自分がやるべきことを考えてそれを淡々とやっていく、そういうことが当たり前の世界を作っていくタイミングなのじゃないかなあと最近は思う。

 

 

何が正解かなんて、本当にもうよくわからない世界がやってきたからこそ。

CDの整理を、していた。




音楽のCDは大量にあるけど全然聴いていないので、妻と一緒に整理して、いらないやつは売るか捨てるかしようと言っていた。



お互いに独身時代に同じものを買っていた場合はその対象になるのだけど、さてそれ以外のものを売るか捨てるかしようとなると、これがなかなか難しかった。

当時の流行りの日本のポップスとかはどんどん捨てちゃおうと思っていたのだが、いざ捨てようと思うと、やっぱりその頃の思い出とか気分とかがはっきりと蘇る感じがして、それが良い思い出だろうと悪い思い出だろうと、それはそれで大事だなあと思ってしまうし、そもそもそんなに邦楽自体たくさん持っていないのでわざわざ捨てる気にもなれない。

それじゃ逆に何度も聴いてて、大事だなと思うやつだけにしぼろうとするのだけど、逆に全然聴いていないやつのほうがジャケットだけ見ても思い出せなくて、さてどんなだっけといちいち再生しているとキリがなくなってしまう。

自分のCDだと全然判断できないくせに、妻が自分のCDを見せてきて、これってどう思う、と聞いてくるのに対しては、それは一時の流行りなだけでダサいから捨てたほうがいいとか、別にネットで聴けるからいらないんじゃないかとか、冷徹に言える。

ところがそう言われた妻のほうはその意見は気に入らないらしく、うーんでもやっぱり残しておく、という。

妻はいつも人に、これってどう思う、と相談するが、結局人のアドバイスを聞く前から自分の中に結論がある人で、はじめから捨てるべきかどうか答えを持っているからあまり意見のしがいはない。

彼女の話はだいたいはじめから結末が用意されていて、そこにたどり着くまで何があって、そこで自分が何をして、その場に関係した人たちが何を言って、というようなプロセスを巻き戻して再生するので、ぼくはそれを順を追って聞く以外に選択肢はない。

CDと違って早送りはできない。


妻はCDの山を、これは邦楽の男の人、これは邦楽の女の人、これは洋楽の男の人、これは洋楽の女の人、という軸で分類をはじめようとしている。

じゃあスウィングアウトシスターはどうなるのかとか、タックアンドパティはどうなるのかとか、タンザニア民族音楽はどうなるのかとか異議を唱えたが、無視して自分のCDたちを四つの山に分けはじめている。

ぼくもだんだんめんどくさくなってきて、早く子どもの宿題の丸付けもしないといけないので、ジャズ、ジャズ以外のポップスではないもの(インストルメンタル、クラシック、オペラ、タンザニア民族音楽)、それ以外、という乱暴な分け方であきらめて、あきらめの山たちを作っていったらジャズの山ばかりが高くなって、もう何もかもがめんどうになってしまった。

妻はまったくジャズを聴かない、好みが共通しているのはR&Bのほんの一部ぐらいなので、なんでそんなに「歌のない」CDがたくさん必要なのか理解されない。

ぼくはぼくで妻が、昔よくあったベストヒット30とかナウ40とかいうその時に流行った曲ばかり集めたコンピレーションを、だっていっぱい入っててお得やん、という理由で後生大事に置いている意味がさっぱりわからない。

人の好みというのは、まあよくわからないものだ。


子どもは子どもで、図書館で本を借りるときに、下の子はまだ小さいのでなんでも楽しそうに読むが、上の子ははっきり好みがあるらしい。

ある日、借りている本の期限が過ぎているからと図書館から叱られて、本人がいない間に、とりあえず返しにいって、ついでにぼくが代わりにいくつか本をピックアップして借りてきた。

小川洋子さんや、江國香織さん、宮部みゆきさんが青少年に向けて書いた短編集とかは、本人はまったく見向きもしなかった。

中村航さんという方の『オニロック』は面白かったらしい。

まあ自分のことを思い出しても、親から無理にすすめられた本というのは読む気がしなかった。

それよりも、母が自分が読む本として本棚に置いていたものを漁って読むほうが面白かったし、大人のために書かれた本のほうが、結末がハッピーエンドとは限らないぶんヒヤヒヤしながら読めたような気がする。


家族であってもそれぞれの好みがあるのだから、世の中に出て、まったく同じ好みの人に出会うなんてのはなかなか難しいだろうなあと今さら思うし、逆にまったく同じ好みの人がいたって、その人とあまりたくさんしゃべりたいこともないような気がする。


それよりも、相手と自分との違いについて話すほうがずっと楽しい気がする。

「はてなダイアリー」を使っている人に伝えたい、たった1つのこと。




ぼくが「はてなブログ」にやってきたとき、そこは「はてなダイアリー」住民が主役の土地だった。




彼らはぼくよりもずっと昔にインターネットに居場所を見つけ、そこを時間をかけて開拓し、暮らしやすい土地にしてきた、尊敬するべき人々だった。

と同時に、彼らは思っていたよりもずっと閉鎖的で、気難しく、好戦的で、うっかり話しかけたらやたらと話が長くなるし、無視して新参者同士で親交を深めていると、陰からじっとのぞいて勝手に憤慨したりする、ひどくややこしい人たちだった。

はてなブログ」にやってきた人たちも、色々だった。

ぼくのように「はてな村」はちょっと敷居が高いけど、この「はてなブログ」ならなんとか手が届くかも・・・とビクビクしながら引っ越してきた人もいれば、「はてなブログ」は、今までポツポツと古民家が残っているだけの土地を再開発してできた全く新しい居住区だと思って引っ越してきた人もいた。

そのうち、この「はてなブログ」に色んな事情でやってきた「はてなニュータウン」の住民と、古くから「はてなダイアリー」に住む「はてな村」の住民とのあいだに小競り合いが起こるようになった。

ぼくも調子に乗って、オレは「はてな村」の住民でもアルファブロガーでもない、サードブロガーだぞ、と息巻いて、小競り合いに飛び込んだりした。

はてなダイアリー」の人たちはみんな優しかった。

わけのわからないケンカをちゃんと買ってくれて、それはこういう点でおかしいとか、こういう点で勘違いしているとか、ちゃんと自分の時間を使って、相手をしてくれた。

あのとき、ぼくは村人から、退屈だけれども何か言いたいことはあるようだから無視し続けるのもかわいそうな隣人、として迎え入れてもらったように思う。

それからは、「はてなダイアリー」の住民とも道で出会えばはてなスターで挨拶することも増え、ついトラックバックを飛ばしあっての立ち話が長くなったり、近くに寄ったからと夜中にわざわざIDコールで安眠を妨害されたりして、この土地での暮らしを満喫するようになった。

また、「はてなダイアリー」に住む人たちも、意外と「はてなブログ」の外観の新しさに関心があったり、そのうちダイアリーにある機能がどんどん実装されていく様子を見て、向こうからちょっと遊びに来たり、試しに部屋をひとつ借りたりするようになり、そうやってこの土地の様子は変化しはじめた。

さて、この閉鎖的で、気難しく、好戦的な土地にもすっかりなじんできた頃、だんだんぼくは仕事のほうが忙しくなってきて、出張が続いて家を長く空けたり、深夜に帰宅してまた早朝に出かけていくだけの生活が続いていたのだけれど、さっき「はてなダイアリー」が終了する、と知ってあわてて今ブログを書いている。

ぼくは「はてなダイアリー」というサービスに対して思い入れはほとんどない。

自分で使ったことがないからだ。

けれども、「はてなダイアリー」を使い、それを1サービスではなく、コミュニティとして育て、村へと発展させてきた人々を心から尊敬する。

みなさんがいたから、ぼくは「はてなニュータウン」にやってくることができ、そこでみなさんと交流し、ウンコをぶつけあうお祭りに参加し、また現実世界で戦おうという元気をもらうことができた。

だから、まだ「はてなブログ」に移行していない、敬愛する先輩方に、これだけは伝えておきたい。


はてなダイアリーからはてなブログへのインポートについては、はてなで公式の移行機能を提供しており、簡単な操作で以下のすべてを実行できます。

記事およびコメントのインポート
はてなブックマークはてなスターの移行
はてなダイアリーからはてなブログへのリダイレクト(はてなダイアリーの記事URLにアクセスすると、移行先のはてなブログの記事に自動で転送される)

2019年春「はてなダイアリー」終了のお知らせと「はてなブログ」への移行のお願い - はてなダイアリー日記


ぜひ、今すぐ「はてなブログ」に移行いただき、これからもウンコを投げ合わせてください、よろしくお願い申し上げます。




・ぼくがはじめて、はてなダイアリー住民と触れ合ったエントリ
inujin.hatenablog.com

・「はてな村」と「はてなタウン」に関するシロクマ先生のエントリ
p-shirokuma.hatenadiary.com

・「はてなダイアリー」終了について
2019年春「はてなダイアリー」終了のお知らせと「はてなブログ」への移行のお願い - はてなダイアリー日記