1日は、8時間しかない。





8時間。



免疫力が極端に落ちない程度の睡眠時間と、家庭の用事に必要な時間と、通勤にかかる時間と、ブログを書く時間を差し引くと、それぐらいしか一日の仕事に使える時間はない。

それを無視して働けば、他のどこかの時間を削るしかなく、削った部分に負荷がかかって、身体を壊したり、家庭が崩壊したり、他の何かが決壊したりする。

だから一日のうち、仕事のためだけに使える8時間のあいだに、猛スピードで業務に取組んで最大の成果を挙げるべきであり、つまらない雑談やダラダラとした昼食やああでもないこうでもないと逡巡して何も決断しない無駄な時間などあってはいけないのである。

しかし告白すると、ぼくの毎日の仕事はつまらない雑談やダラダラした昼食やああでもないこうでもないと逡巡して何も決断しない無駄な時間にあふれていて、なかなか改善するのは難しい。

理由は簡単で、短時間で仕事を終わらせて退社することが評価されないからである。

むしろ遅くまでダラダラ働いて、仕事をたくさん抱えて頑張っている体でいるほうがなんとなく居心地がよかったり、それをああ忙しい忙しいしかし俺はこんなにすごい仕事をしているのだと大きな声でアピールするほうがなんとなくいい感じだったりする。

まあ別にそれはそれぞれの生存戦略であり、ぼくもこれまではそうやってダラダラと仕事をしてきたのだ。

もうちょっといえばそこまでダラダラと仕事をするには明確な理由があって、仕事は自分から増やそうと思えばいくらでも増えるからである。

しかし増やしたからといって同じだけ売上が増えるわけではない。人がいくらたくさん働いたからといってそのぶん大きく増えるような種類のものではない場合が多いからだ。

となればできるだけ働かないほうが利益は大きくなるわけだが、まあそんなわけにはいかない、顧客からの要望はどんどん増えてくる、これに対応しなければ売上を失いかねない。

そんなわけで、ダラダラと遅くまで顧客の要望につきあって、相手の気が済むまで時間を無駄に使い、ああ俺は忙しい、忙しい、大変だ、大変だ、しかし俺はこんなにすごい仕事をしている、そんな俺はすごいすごいと大きな声でアピールすることで、何か物事が進んでいるように見せかけることのほうが大事になってくるのである。


ではどうすれば8時間で仕事を終わらせることができるのだろうか。


いくつか方法はあるだろうけれど、一番根本的な解決となるのは、自分の会社の商売を、8時間で仕事を終わらせることができる商売に変えることだ。

大きな売上と引き換えに無限労働を提供する商売から、一日8時間の労働で完結する商品を売る商売に変える。

もちろん、そんな商売が成立するかどうかはやってみないとわからないが、自分や自分のチームだけでも一度試してみる価値はある。


・そもそも一日8時間で終わる仕事を売るためには、当たり前だけど一日8時間の労働だけで成立させられる商品やサービスを作る必要がある

・また、できれば今までと同じかそれ以上に給料が増えたほうがありがたいから、利益を減らすわけにはいかない

・となるとぼくらはこれまでよりも短い時間で、高く売れるものを生み出す必要が出てくる

・さて難問だ

・難問に出くわしたときは、とにかく色んな視点から問題を見つめてみる

・たとえば手放すということも大事じゃないだろうか

・売上の多くを占めている商品やサービスのことを一度忘れて、それでも何か売れるようなものはないだろうかと考えてみる

・ついでに自分の変なこだわりとかこれまでの経験からも自由になってみる

・色んなものをどんどん頭の中で手放してみて、それでも何かワクワクできるもの、面白そうなものが残っていないだろうか

・ぼくの場合は、何かについてみんなでアイデアを出し合っている瞬間だ、これまでは文句を言ったりボソボソしかしゃべらなかったり押し黙ったりしていた人たちが、急に「ひらめいた!」と目を輝かせ、それぞれの言葉でしゃべりはじめるあの感じだ、それを紙なりホワイトボードなりパソコンなりに描いていくときがたまらなく好きだ

・であれば、そういうことを商売に生かすことはできないだろうか、一日にたった8時間しかその商売には時間はかけられないけれど、しかしずっと高いお金を払ってもいいと思ってもらえる、そんな商売はできないだろうか

・アイデアというのは時間をかければ生まれるとは限らない

・大会議で偉い人たち、賢い人たちが集まってああでもないこうでもないと話し合って、良いアイデアが生まれた場面を見たことは一度もない

・アイデアというのはとても恥ずかしがりで、怖がりで、机の下やジャケットの裏やパソコンの底に隠れて、ブルブル、ブルブルと震えているのである

・そいつを捕まえるには、それなりのコツが必要なのである

・100時間かけても見つけられない良いアイデアを、8時間で見つけられるとしたら、それにお金を払いたいと思う顧客もいるんじゃないだろうか


なんていうのはすべてただの妄想だけれども、新しいことを試してみるきっかけにはなる。

一日は、たった8時間しかない。

これを前提にしてできることを考えて、試してみて、うまくいかなければまた考え直してみる。

別に誰のためでもない。

自分が大切にしたい時間を守るため、ただそれだけである。



ウルトラマンだって、地球上でいくらでもダラダラと戦うことができるのであれば、一撃必殺のスペシウム光線なんて編み出すこともなかっただろう。

地位でもなく、お金でもなく。



終電近くの電車に乗って、月曜日だったせいか車両は空いていたので首尾よく座れたのだけれど、途中から酔っ払いでおまけに体格の良い若者たちが3人わざわざぼくの座席の前に立って大きな声で話し始め、おまけにこっちにフラフラと寄りかかりそうになっている。



大声で無理やり聞かされる話の内容がまたまったく面白くない。

人生というのは帰りの電車でさえ簡単にはいかないものだなあと思いつつ、しかしこの人たちにはこの人たちのルールがあり、彼らの中では見知らぬ中年サラリーマンに気を使うよりも、電車の中で大声で先輩に対して後輩はいかに礼節を重んじる必要があるかについて議論することのほうが重要なのである。

いま彼らを動かすことができるのは、その先輩と後輩の関係性に関わる場合だけなのだろう。

ぼくは無意識のどこかで、人というのはだいたいはなんらかの権力か、あるいは一定のお金によって動くんじゃないだろうかと思っていたりするが、実はそんなことはまったくなくて、仮に3人を、ちょっと静かにさせて、ちょっとジッとさせるためにお金を握らせていても、なんの進展にもならない。

それは自分だってそうで、顧客や経営者の言うことは聞いても、何の関係もない人からのクレームに耳を貸すことはない。

そうやってぼくらは目に見えないルールを重んじて、目の前の他人を風景として扱っている。

そんな状態の人の行動を、全くの他人が変えるなんてのは、ひどく難しいことだ。



できるだけ多くの人に動いてもらうためには、どうすればいいか。

たぶん、できるだけ多くの人を知ることだろう。

その人の喜び、怒り、悲しみ、そういったことを知ることだろう。

その人が大切にしているものを知ることだろう。

そうすることで、その人は赤の他人ではなくなるからだ。



なんてことを思いながら電車に乗っているとそろそろ自分が降りる駅だ。

ガタイのいい若者たちに、すみません降ります、と頭を下げて、それでもなかなか動かないので押しのけるようにして立ち上がる。



人に関心を持つのも、難しいものだ。

ぼくが方向音痴である、理由。



学生時代をすごした神戸を、仕事の用事で最近訪れることが多い。



久しぶりに歩いた三宮はちょっとキレイになっていて、だけど大きくは変わっていなくて、相変わらず大学生ぐらいの若い人も多くて、外国人の観光客は増えたかもしれないけど、それも前から多かったので、やっぱり大きくは変わっていないような気がした。

気のせいかもしれないが、飲食店で流れてる音楽はR&Bが多くて、それもあんまりマニアックなやつじゃなくて、街ゆくお姉さんたちもお気に入りのいい感じにミーハーな楽曲ばかりだ。

いい感じ、というのは、本当はハードコアな音楽も知ってるんだけど、その上でやっぱりいいものはいいよね、という理解のもとで、気楽に、自由に楽しんでいる、という態度だろうか。

いい感じのメロディが流れる神戸は、いい感じにコンパクトな街で、海と山がどこからでも見えるから道に大きく迷うことはなくて、そのせいでぼくは方向音痴になったんだと思う。

神戸では、いつも自分の居場所を確認することができた。

海と山があって、好きな音楽があって、好きなレコード屋があって、好きな本があって、好きな服屋があって、好きな喫茶店があって、しかしそれほどたくさんの選択肢はなかったから、どこに向かえばいいか迷うことはあまりなかった。

若い人は、遊ぶか、勉強するか、その真ん中か、あるいはどっちもしない、ということしか選ばなかったから、もちろん色んな悩みはあったし、特に震災のときにみんなの価値観みたいなものは何か変わったような気もするけど、それでもめちゃくちゃに複雑に色んな考え方が往来する感じではなかった。

ぼくはちゃんと勉強もするし遊びもやるよ、というあたりにはじめはいたのだけど、そのうちあんまり勉強しなくなってきて、かといって真剣に遊びと向かい合うこともせずフラフラと過ごしていて、ついに大学も留年することになり、このままじゃまずいなと気づいた頃には大阪でコピーライターの勉強を始めていて、大学の用事以外で神戸に行くことが少なくなっていった。

大阪で働き出してからは、めったに行かなくなり、そのうち阪急電鉄神戸線で岡本や三宮に行くまでにかかる時間がひどく長く感じるようになり、たまに行ってもあまり変わりばえのしない神戸までわざわざ向かうことを、選ばなくなっていった。



もちろんそれは間違っていて、神戸だって、いつも変わり続けているのだ。

だけどぼくはとても急いでいた。

早くコピーライターにならねば、早く夢を達成しなければと、やたら急いでいた。

今だって、残りの人生の中でできることを少しでもやらなくちゃと急いでいる。

久しぶりに神戸の街にやってきても、用事を済ませたら、あわてて次の場所に移動している。

そんなやつの目には、神戸の街で起きている大きな変化は見えないだろう。

自分のことばかりで夢中なやつは、神戸という無数の共同体の集まりが、ものすごいスピードでくっついたり離れたりを繰り返しているのにも、気づかないだろう。



神戸から見える山と海は、人間に対して嫌でも自分たちが自然の一部であることを意識させる。

都市は自然の一部でしかなくて、人間は都市の一部でしかなくて、そしてぼくは人間の一部でしかない。

その中で、居場所があり、好きな音楽があり、好きな本があり、好きな喫茶店がある。

果たして、自分らしく生きるとか、自己実現とか、夢とか、ビジョンとか、そういうものを追いかけることだけが正しいのだろうか。

わからない。



まあ何かひとつ言えることがあるとすれば、ぼくはもうとっくの昔に、何かに向かって走り出してしまっているし、それを今さら止めたところで新たな居場所が見つかるわけでもないし、だからまたトアウエストでゆっくりカフェラテを楽しむようになるのはだいぶ先になるだろうな、ということぐらいだ。



人生なんて、ないものねだりの連続でしかないのだ。