正解なんかに、負けやしない。

 

 

 

 

受験戦争を経験したせいで、正解ばかりを気にして生きてきた。

 

 

 

社会に出ても、得意先が喜べば正解、上司が喜べば正解、賞を獲れば正解、出世すれば正解、いつも何が正解なのかばかり考えて生きてきた。

それ自体は間違いでもないし、正解でもない。

はっきり言えばそんなことはどうでもいいことなのだ。

 

大切なことは、どんなつまんないことであっても、自分が何をやりとげたいか、ということだけであり、その何かは別に変わったっていいし、自分の中になくたってよい。

家族がやりたいことを応援するのでも、アイドルが売れるのを支えるのでも、なんでもいい。

 

そしてもっと大切なことは、それを追いかけるということを決めたら、他には何の正解もないということを知っておくということだ。

 

色んな人が色々言う。

あの人には気に入られるようにしたほうがいいよとか、賞を獲るなら審査員を分析したほうがいいよとか、社内行事には参加したほうがいいよとか色々言うし、それらに素直に耳を貸すことは間違いではない。

けれども、どれ1つとして、自分にとっての正解ではない。

どうしたってキーマンとの相性が悪くて改善できないこともあるし、審査員に当てにきた作品ほどつまんないものはないし、社内行事に一度も参加せずに役員になった人もいる。

何が正解か、ではなく、何が正解に思えるか、しかそこにはない。

それでもつい人は、みんなが正解だと言うことを律儀に正解だと思いこんで、あるいはこれが正解なのだと言いふらして、同じことを繰り返し、じっと我慢をして生きていく。

 

ぼくは、もうそういうのはごめんだ。

残された時間もどんどんなくなっていく中で、他人が勝手に作った正解なんかを追いかけているヒマなんて、もうない。

自分が勝手にこしらえた正解(それは妄想でもよい)を好き勝手に追いかけて、勝手に失敗したり、勝手に工夫したりして、勝手に生きていきたいのである。

それは正解というよりも、自分で問題そのものを作っていくプロセスなのかもしれないけれども。

 

などというぼくの話を鵜呑みにする必要も全くない。

 

いつだって、正解は、自分の中にしかないし、それを見つけるのもまた自分しかいないのだから。

ハッピーエンドは、望んでいない。



自分の人生を振り返ってみると、これはいかにもハッピーエンドだな、みたいな場面が、決してたいしたことではないのだけれど、いくつかすぐに思い起こされる。



しかし残念ながらというか幸運なことにというか、ぼくの人生はまだ続いていて、それで、自分がいまハッピーかどうかというのを、それらのハッピーエンドとなんとなく比べているような気もする。

だけどそれは悪くない話だと思っていて、なぜなら仮にそのハッピーエンドな瞬間よりもいまがハッピーじゃないとしても、自分には一度ないし二度三度とハッピーエンドを迎えられた経験があるわけで、もうあとはどれだけ記録更新に取り組もうか、みたいな、自分との戦いないし折り合いをつける作業のような気でいられる。

辛いのは、他人のハッピーエンドを自分のハッピーエンドと勘違いしてしまうことである。

有名クリエイターとして大活躍することや、会社の役員になって経営手腕を発揮することや、高級住宅街に居を構えて外車を乗り回すことは、ぼくのハッピーエンドではないのだが、しかしそれをいつのまにか自分のものだと思い込んでいたりする。

ややこしいことに、人生の台本には名前が書かれていないので、気づかないうちに他人のそれと差し代わっていても、そのままだったりするのだ。

別にそれでも構わない人は構わないのだろう、そういう人は、他人の台本だろうが自分の台本だろうが難なくやりきることのできる能力を備えた人か、あるいはもともと自分の台本なんて書くつもりもない人だろう。

しかし少なくともぼくは自分だけのハッピーエンドを迎えたいし、誰かが勝手に決めたハッピーの定義に簡単に乗っかるには、ちょっと年を取ってややこしくなりすぎている。

もっといえば、もはやぼくはハッピーエンドを望んでもいない。

欲望なんてものは満たされないものだし、万が一それが満たされたとしてもまた新たな欲望が生まれるだけだ。

もちろんあまりにも理不尽な目にあって人生を終えるのはイヤだけど、しかしまあそうだとしても、いやあ我ながら最後までなかなかしつこく抵抗できたなと思いながら消えていくのも悪くはない気がする。

若い頃は早く欲望を満たしたくて、早く幸せになりたくて、焦っていた。

いまは、自分の欲望とじっくりと付き合っていきたい。

そして、今までよりももっとややこしくて、凶悪で、手強いやつに育ったところで、苦労して、やっとの思いでしとめたいのだ。

そんなわけで、ぼくは一般的な幸せについての話をするのはあまり得意ではない。

もし、相手がとんでもなく凶暴な欲望を飼っていたとしたら、嫉妬のあまり、どうなるかわからないからである。

ぼくは、ぼくのために働いているだけ。



特に答えはない。


こーさん(id:koh0605)が、休日返上で働く上司を見て、自分を犠牲にしてまで仕事で手に入れたいものなんてあるのだろうかとモヤモヤした、というエントリを読んだ。
自分を犠牲にして仕事で手に入れたいものなんてない。 - いずれも。

それで、ぼくもモヤモヤしたので、ちょっと考えていたけれど、良い答えは何も思いついていない。

ぼくは社会人になってから、このブログを書き始めるまでのあいだ、ずっと、人生において仕事はほとんどすべて、あとはおまけ、と思っていた。

子供ができてからも、子供がいなければもっと遅くまで働けるのに、土日出勤もできるのに、と思うことも時々ある。

いまでもぼくは仕事なり働くこと自体にはすごくこだわっていて、出世できなくても、周りから評価されなくても、自分自身が納得できるように働きたいと思っている。

そういう点ではこの上司の働きぶりがうらやましい。

ただ、自己犠牲、という考え方は、あとあとしんどくなるんじゃないかなあとも思う。

土日返上で働くのも、それでボロボロになるのも、自分でそう決めてやるなら、それでいい。

だけど、勝手に「自分は会社のために犠牲となっている」と思って働くのはマズい気がする。

それだと、たとえば会社から高く評価されなかった場合に「自分はこんなに犠牲となって会社に貢献してきたのに!」という感情が生まれてしまう。

ぼくはいままで自分のために働いているつもりだったけれど、それでもいつのまにか「俺はこんなに苦労しているのになぜ評価されないんだ!」という気持ちを抱くようになっていて、そのこと自体にすごくショックを受けた。

ついつい便利だから、犠牲、とか、貢献、とか言っちゃうのだけれど、まあそれを社内の方便として使うのは好きにしたらいいけれど、本当にそう思うのはマズいように思う。

そういう感情というのは直接言葉にしなくても、態度や行動に出てくる。

「俺はみんなの代わりに犠牲になってて大変なんだ!」「お前たちが今日のうのうと暮らせるのも俺が私生活を投げ打って会社に貢献してるからなんだ!」というのがビンビンに出てくる。

ぼくは、自分がそんな気持ちになったことがあるし、いまでもふと思ってしまうことがある。

しかし、どうなんだろう。

たしかに、特に会社のような組織ではそういう骨の髄までとにかく仕事、仕事が人生の全て、という人たちの活躍によって他の人たちが引っ張られて組織が成長していく、という状況はよくある。

だけどそういう仕組みの話じゃないんだろう。

単純に気持ちの問題として、「俺はお前たちの代わりに犠牲を払ってる」と勝手に犠牲を払われている、自己犠牲の押し売りみたいな感じがめんどくさいし、仮に自己犠牲を払わない人間はダメ、みたいな空気になってしまったら最悪だ。

はじめから何か結論をまとめる気はないのだけれど、そんな、もっと生の、感情の話から目をそらしたくないなあと、ちょっと思った。

ぼくは仕事が好きで、働くことが好きだけれど、それはそこで起こる辛いことや苦しいことも含めて、好きだと思う。

でもそれはあくまでぼくの感情であって、そうじゃない人に押しつけるのは別の話。

好きにはなれないなあ、自己犠牲、というのは。

ぼくは、ぼくが大好きなので、そんな大切なぼくの人生を何かの犠牲にはしたくない。



ぼくは、ぼくという生き方を、好きでやってるだけなんです、はい。