ごはんがおいしい、理由。


すごくおいしいお店に行った。



そのお店はいつもぎゅうぎゅうの満員で、イラチの関西人も辛抱強く並んで待っている。

安くて、メニューは創意工夫があって、おいしくて、ちょっとだけ味付けは濃いのだけど、これがまたお酒に合う(ぼくは飲まないので関係ないが)。

かかっている音楽は軽快で、テンポが速くて、みんなのおしゃべりがどんどん進む、お酒も料理もどんどん進む。

お店の人たちは注文があるたびに大きな声を出しながら楽しそうに料理を作る。

どんどん食べて飲んで楽しんでいってくださいねと、笑顔で声をかけていく。

お客さんが食べて、飲んで、しゃべって、笑って、お店の人が作って、運んで、また注文を聞いて、かけ声を出して、それらがぐちゃぐちゃに混ざっていって、おいしいことと楽しいことと、あそぶことと働くことの区別がよくわからなくなってくる。

もともとは別々だったものが、お店の中でミックスされて、特別な味を生み出している。

これが創造なんだと、ぼくは場違いなことを思いながら、ワインで蒸されたばかりの貝をあちちあちちと殻からはがし口にほうりこむ。

さわやかな酸味とゆたかな甘みがたっぷり詰まった完熟トマトのスープを、フウフウ言いながら飲み干す。

にんにくとたまねぎの香りがたまらない濃厚なソースのたっぷりかかった、まだジュウジュウいってる分厚い肉にかぶりつく。

元気でスピード感のある音楽が、異質なものの組み合わせをどんどん加速させていく。

気軽に注文しやすい価格の安さが、お客さんを積極的にして、酒と料理を介した人と人のセッションをつぎつぎと発生させていく。

その光景を外から見ながら行列の作っている人々は、早くその素晴らしい時間がやってこないかと、今か今かと待っている。

イラチな関西人のくせに、辛抱強く並んで待っている。


そうなんだ。


消費することは、とてもたのしい。



ぼくはそこでまた場違いな発見をして、人知れず苦笑いをする。

荷物なんか、いらない。




あんたんとこの会社はスターが育ちにくいからねえ。



上司に連れて行ってもらったバーで、上司の知り合いからそう声をかけられて、ぼくは、はあ、そうなんですかと、あんまりよくわからずにあいづちをうった。

ぼくは新入社員で、自分はいつかスターになるのだとなんの根拠もなく思っていたし、しかしそうなるにはあまりにもたくさんのハードルが待ち受けていたけれど、だがまあそのうち何とかなると、やっぱりなんの根拠もなく思っていた。

だから、この人は何でそんな不吉な話をするのかよくわからなかったし、そんな話にただ黙ってうなずいてる上司も悔しくないのかと疑問に思いながら、たいして美味くもないピーナッツの殻を床に投げ捨てた。

そうするのが作法なのだと教えられたからだ。


仕事が面白かったかといえば、けっしてとびきり面白かったわけではない。

むしろ自分のやりたいと思っていたようなカッコいい仕事は別の同期の人間がたずさわっていて、ぼくはもっと後方の地味な役割を担う職場にいた。

地味なくせにやたら忙しくて、ぼくの段取りが悪いせいもあり、徹夜が続くことも多かった。

カッコいい仕事をしている同期とたまに会社で顔を合わせ、最近調子はどうだと聞いたら、もうしんどすぎる、昨日なんか終電だぜと言われて、こっちは電車なんかとっくになくなった時間まで地味な作業をしているのに、やりたいことやってて何がしんどいだ、とムカついていた。

仕事を教わっている先輩からはいつも怒られてばかりで、なぜ怒られるかといえば、ぼくが言うことを全然聞かなかったからだ(だいぶあとになってから、後輩が生意気すぎて困るといつもグチっていたと、別の先輩から教えてもらった)。


ぼくには理想があった。

こんな仕事をして、こんなふうに有名になりたい、というわかりやすくてバカバカしいもの。

いつもその理想が頭の中にどっしりと座りこんでいて、それとは関係のない仕事や正反対の仕事を否定していた。

周りの先輩たちはそんなややこしい新人の相手をするのはさぞかし面倒だったことだろう。

でも、みんな相談に乗ってくれたし、さまざまなアドバイスをくれた。

しかしぼくは理想をあきらめることはできなかった。


それから世の中は急激に変わっていった。

あっというまに、ぼくが理想としていた仕事のやりかたなんてまったく通用しない世界になった。

ぼくは進むべき道を見失ったし、たくさんの失敗を重ねた。

気がつくと、苦い経験以外に何も手にしていなかった。

自分はどうもスターにはなれなかったということを受け入れざるをえなくなった。

受け入れるにはかなりの時間がかかったけれど。


ところで不思議なことがある。

ぼくはブログを書いたり仕事とは全然関係のない人たちと出会って話をしたりしているうちに、急に気づいたのだ。

自分はとても自由なんだと。

いままでぼくは仕事とはこういうものだ、というよくわからない理想にしばられていた。

それは偉大な先輩たちが作ってきたすばらしいものだ。

しかしぼくの仕事は、ぼくが作ればよかったのだ。

誰かの理想を守ることなんて別の誰かにまかせて、もっとおもしろい未来を作ればよかったのだ。


あんたんとこの会社はスターが育ちにくいからねえ。

いつまでも業界とか世間の常識にとらわれていてはダメなんじゃないですか。

思いこみにとらわれず、もっと自由にやったらどうですか。

どうせ何も持ってないのだから。



また、新しい季節がやってくる。

一億総活躍の、方法。



足りていないのは、欲望だ。



いま一億人が活躍できていない理由を色々と挙げることはできる。

問題点を並べて、それらを解決する方法について考えることはできる。

だけど、もしそういった問題点をすべて解決することができたら、この国の誰もが活躍する世の中になるのだろうか。

そうはならない。

何もかもをお膳立てされたとしても、別に活躍したいと思っていない人は、やっぱり活躍しようとはしない。

すばらしい教材と超高級な学習机と何時間座っていても疲れない椅子と、そしておなかがすいたら何でも好きなものを食べられる環境がそろっていたって、すべての子どもがワクワクして勉強にとりかかるわけではないのと同じだ。


足りていないのは、欲望だ。


おいしいものが食べたい、たのしい遊びがしたい、好きな人といっしょにいたい、おもしろい人生を送りたい。

ぼくらの心の中にある、非常にわかりやすくて、ひどくバカバカしくて、そしてとてもパワフルな存在についてもっと注目しなきゃいけない。

もちろん欲望は悪さもする、ズルいことを考えるきっかけになることもあるし、それをコントロールする訓練をしていないと、自分の力に負けてしまってひどい目にあうこともある。

だからぼくらは色んな人たちから、遊びや学びや仕事や生活や、あるいは何にもしないことをとおして、欲望とつきあっていく方法について教わる。

そのうちにぼくらは気づく、欲望というものは育てることができることを。

一生遊んで暮らしていたい、と言っていた人が、仕事大好き人間になっていたり、一人でいる時間が何よりも好き、と言っていた人が、毎晩飲み歩くようになっていたり、逆にさみしがりやでいつも誰かといっしょにいたいと言っていた人が、孤独な作業に向き合うことに夢中になっていたり。

それはその人の本質が何か変化したわけではない。

心の中の欲望が、この世界の広さや深さに気づき、もっと自分の力を発揮できる場所を見つけ、自由に飛びまわることができる大きな翼や、深く掘り下げていける強力な爪をもった存在へと進化をとげただけにすぎない。

ぼくらは誰かがそういう状態になっているのを見て、あの人は活躍している、というのじゃないだろうか。


足りていないのは、欲望だ。


恥ずかしくて人に言いにくい欲望や、それが実は欲望だと本人にすら気づかれていない、そんなものたちの存在を受け入れる。

人の欲望を肯定し、それがどんどんたくましいものへと育つことを祝福する。

問題だとか必要だとかソーシャルグッドだとか世の中のためだとか、まあそういう言葉はひとまず置いておいて、おもしろいだとか、たのしいだとか、きもちいいだとか、そういうことを優先していきたい。

よく考えたら、一億人が総活躍していたら、ちょっとつまらない、自分のほうが他人よりも活躍したいじゃないか。

だけど自分ばっかり活躍するのも、それはそれでつまらないじゃないか。

だから今回は誰が活躍できるのかを本気で競争することだって、おもしろいじゃないか。


足りていないのは、欲望だ。

欲望の声に耳を傾ける態度だ。

素直に自分の欲望を認めていこう。



本当に自分の心の中からワクワクする気持ちがなくなってしまう前に。