自由な場所なんて、どこにもない。



今朝の地震は、大きな被害がなかったようで本当によかったけれど、空間的・位置的なものにしがみついている、あるいはとらわれている息苦しさのようなものを、より強く感じもした。



情報革命によって、人がその空間に存在している意味は少しずつ失われている。

鈴木謙介さんがいうところの「空間的現実の非特権化」は着実に進んでいる。

しかしそのせいで、かえって、空間的現実のどうしようもない重さ、すぐにはそれをなんともできない無力感、みたいなものを余計に感じる気もする。

原発の汚染水が増え続けていることや、関西にも大きな地震がやってくることや、あるいは災害が来なくてもこの国がものすごいスピードで老化していってることは、いますぐはどうにもできない確固たる空間的現実として、ぼくらにのしかかっている。

ぼくらはインターネットの力を借りて、空間的現実から離れ、虚数化された肉体になって色んな世界を見に行くことができる。

しかし、たくさんのことを知れば知るほど、わかるのは、自分が何もできないこと。

そして、もはや完全に自由な場所なんてないこと。

どんなに偉そうなことを言ったって、月収30万円の船に必死にしがみついているだけなのだ。

ぼくは別に、そんなに深く絶望しているわけではない。

生きるということは、色んな絶望と希望が入り混じった雲の中を進み続けることなのだ。

けれども、それだけじゃ、あまりにも生きるのは退屈で、息苦しくて、さえなさすぎる。

なんとなく、創造、という概念があらわれるのは、そういう、空気が薄くなってる場所からなのかもな、という気がする。

だけどそれはただの予感にすぎない。

しかし進んでみないことには、物語の先は読めないことも、たしかだ。

こうやって通信機器の画面を見ていたって始まらないことが、たくさんある。