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犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるヒントについて考えています

退屈をなくす、ことば。



小説やマンガの主人公は、あんまりダラダラしていない。



もちろんダラダラしている主役もいるのだけど、その代わりに周りが何かと事件を起こしたり、それを解決するために主役もちゃっかり本気を出してみせたりする。

もちろん、お話というものはそうじゃなくちゃ退屈だし、退屈なコンテンツじゃファンも増えない。

そんなわけで、読者をひきつけ続けるべく、今日も主人公やその周囲はいつも何かに夢中になって生きている。


さて、そこでわれらが主人公たる自分自身の出番である。


どうもぼくの人生は、小説の主人公のようにつねに何かに夢中になって生きていけるようにはできていない。

突然何もかもがつまらなくなって、長いあいだ退屈な気持ちのまま毎日をすごすこともあるし、さてさて人によってはずっとそんな気分のまま人生を終える人だっているようである。

そんなわけで、誰もができるだけ自分が退屈しないように努力をする。

一番取り組みやすいのは、日々の仕事や家事である。

こういう毎日のタスクというものはなかなかよくできていて、追求すれば非常に奥が深い。

一見は単純な作業であってもさらに効率化しようと思えば色々と工夫できることがあり、自分なりの仮説と検証を続けていくことで、退屈せずにすむ。

あるいはそういった「やらなければいけないこと」にはある程度見切りをつけて、「やりたいこと」の中に夢中になれる瞬間を見いだすこともできる。

まあこのへんの垣根はあいまいで、つまらないと思っていたことでも、自分なりに理論を確立できてそれなりに得意になってきた場合、それが「やりたいこと」になることもあるので、それはそれで楽しかったりする。

こういう取り組みというのは決して日々の仕事や家事だけでなく、実は趣味だったり娯楽の世界でもいえることで(「趣味なら、本気で」というすばらしいキャッチコピーもある)、人は何かに本気で取り組んでいる瞬間に、退屈を忘れることができるわけである。


そこで問題があって。


人間というものは、われら人類の共通の敵たる退屈から逃れるべく何かに「夢中になろうと夢中になる」ことで、色々と他人を巻きこんでしまうのである。

それもまだ直接「一緒にやろう」という誘われるのはマシであって、断りようもある。

しかし「〜さんが言ってるからやろう」という構造が生まれると非常に厄介である。

その時点で、あらゆる取り組みは「退屈からの脱出」ではなくなって、同調圧力や義務となってしまう。

さらに厄介なのは、そうやってしぶしぶ参加した人たちの気持ちを、発起人は気づかなかったりする。

そして、なんだせっかく楽しもうとしてるのに難しい顔しやがって、とすら思っていたりする。

おまけに、退屈を忘れようとするためには、なんでも夢中に取り組むことが大切なわけで、そりゃ退屈を振り払おうとしている本人は真剣にやるだろうが、課題を共有できてない人たちからすれば、夢中に取り組むどころか、迷惑千万な話としか思ってなかったりするわけである。

退屈をなくそうとする行為が、それに付き合わなくちゃいけないという新たな退屈を生み出す。

そんなわけで、退屈をやっつけるという作業はなかなか簡単ではないのだ。

それでもどうしても他人と一緒に、人生の退屈という共通の敵に立ち向かいたいならば。


ダンスを申し込むしかない。


一人ひとり、丁寧に誘うしかない。

そして一緒に踊ってみて、お互いに楽しめたら、また次回も誘ってみたらいいし、だめならもう無理に誘わなければいい。

そうやってじっくりと、自分と似た種類の退屈に悩んでいる人たちと出会っていくしかない。

ぼくは何か遊びを思いついたとき、つい「さあ集まれ!」「さあやろう」と言いがちだけれど、本気で自分の退屈をやっつけるつもりがあるなら、それじゃだめだ。

それは「自分自身がそうしたいから」という意志が見えない、ずるい言い方だ。

そうじゃなく。


ぼくと一度、踊ってくれませんか。


これが、ほんの一瞬でも誰かと一緒に人生の時間を楽しみたい時の、正しい誘い文句なのだろう。


そんなことを、最近思った。