ぼくの、宿題。



夏休みの宿題がたまっている。



仕事をしながら、時間を作ってやっておきたいな、と思っていたことがあり、お盆休みはそれをどこかで取り組むつもりだった。

お盆休み、といっても自分だけの時間が十分にあるわけではなく、基本的には家族や親せきと一緒にすごすので、たとえば子どもが寝静まった深夜とか、早朝とかそういうタイミングを狙っていたのである。

ところが、妻の実家を訪れたその日に風呂ですっ転び、腕を四針縫うケガをしたので、しばらく片腕だけで過ごさないといけなくなった。
ケガの様子を詳しく説明すると、きっと読んでいる方が不快になると思うので、しない。
とにかくこんな大きなケガをしたのは中学生以来で、まあやたらと痛い。
痛くて何もする気が起こらないので、しかたなく横になると、損傷した箇所が床に当たってズキズキするので、ろくに眠れない。

早く傷口がふさがって、さっさと治ってほしい、だから早く時間が過ぎてほしい、と思う一方で、しかしあまり早く時間が過ぎてしまうとやりたかったこともできないという焦りもあった。

妻は、ほんま鈍臭いんやからと言いながらも、妙に優しくて、地元の病院まで付き添ってくれた。
子どもがいると夫婦だけでどこかに出かけることがめったになくなるのだが、実家だと子どもを置いていけるので、二人きりの外出である。
歩くたびに腕が痛むので、早く病院に行ってこの状態を解決してほしいと願う一方で、久しぶりの二人の時間はがもっと続いてほしいとも思った。

とんでもなく乱暴な話だが、人生というのはおよそこういうものかもしれないとも思った。
生きるということはたくさんの痛みや苦しみを抱え、これに耐えるという行為なので、その痛みから解放されたい、と願ってぼくらは早く未来へとたどりつきたがる。
しかし実際は、痛みも喜びもあざなえる縄のようにより合わさっていて、それがぼくという固有の命を形成しているわけである。

今の世の中は、とにかく色んなものを切り分け、同じ部分だけを抽出し、同じ基準のもとに比べ、優劣をつけたがる。
だけどそれだけでは人間の幸せや不幸せというものを十分に理解することはできないだろう。
一人ひとりの命に与えられた宿題の中身を知ることはできないだろう。

ぼくはサラリーマンとして、財を生み出し、その利益を最大化することが義務であり、それを今は避けることができない。
しかし、ぼくの人生の宿題はそれだけではない、とはっきり言える。
ぼくの宿題は、あれこれ悩み、ああでもないこうでもないとウロウロし、風呂ですっ転んで四針縫ったり、痛い痛いとわめいたりしながら、少しでも人間について考え、人間のこれからについて妄想し、ちょっとでもマシな人生のあり方を探し続けることなのだ。

そんなものに終わりはない。
だから、ぼくは死ぬまでに答えを見つけることはできないだろう。
ぼくの人生が、ある日突然終わりを迎えるとき、それまでにやってきたことのすべてがぼくなりの宿題の成果なのだ。

そんなわけで、これからもぼくはたっぷりと課された宿題に追われる日々をすごすのである。

いま、大切にしたいこと。



自分にしか興味がなかった。



なかった、と過去形にしてカッコつけたけど、それは今でも変わらない。
自分は周りからどう思われているか、自分は今気持ちよく仕事しているか、自分はどうすればもっと良い人生を送ることができるか。
そればっかり考え続けている。

コピーライターの修行をしていたときに教わったのは、広告賞が欲しければ自分の世界を創れ、自分だけの視点を増やせ、ということだった。
これは自分が大好きなぼくとしてはすんなり受け入れられる教えで、はじめこそ自分の世界ってなんだろう、と思ったけれども、試行錯誤しているうちにだんだんわかってきた。
それはカッコいいことでもなんでもなく、自分の恥ずかしいところや嫉妬心や欲望を隠さずにさらけ出すことだった。
自分をさらけ出して企画をするようになってから、突然、賞ももらえるようになったし、クリエイティブディレクターに案を採用してもらえるようになった。
そのときは、オレの時代が来た!と思ったのだが、本当はそんなすごいことでもなんでもない。

一人の人間が心を開き、その人間の経験やこだわりやねじまがった根性やモヤモヤした感情をさらけ出すことで、これまで他の人が気づかなかったり、見て見ぬふりをしていたものが見えてくる。
すると、そうなんだよね、オレもほんとはそう思っていたんだよね、とか、うわ、こいつバカだなあ、でもその気持ちはわからんでもないなあ、とか、そうやって他の人もピクリと反応する。
その反応の連鎖が新しい動きを生み、新しい流れを生み出していく。

だから、一人ひとりが自分だけのものの感じ方をして、自分だけの感情を持って、自分だけの葛藤をすること。
そして、そういう人間のあり方を全力で肯定しあうこと。
それが、創造には必要なのだと思う。

誰もが同じ価値観を持つこと、同じものの感じ方をすること、そして同じ判断をし、同じ行動をすることが良いとされる世界では、きっと創造は起こらない。
きっと、創造が起こらなくてもすぐには困らないだろう。
その代わりに、他でうまくいってることをそっくりそのままマネすればいい。
誰もが同じように動く世界なら、マネをする対象さえ見つかれば、一気に追いつき、量やスピードでオリジナルを超えることができるだろう。

どっちがいいとか、どっちが悪いとかはわからない。
ただ、すっかり事態が停滞していて、その原因がよくわからなくて、少しずつ気力が失われていくような状況にあるとき。
あるいは、このまま同じことを続けていても何も変わらない気がして、自分の中の何か大事なものがちょっとずつ消えていくような気がするとき。
そこには創造が必要だと思う。

一人ひとりが自分の抱いている違和感や、不自然さや、恥ずかしい欲望や、漠然とした不安をさらけ出し、あ、それ実はオレもそうだったんだよねと声をかけ、それじゃ一体全体どうするよと一緒に考え始めることが、必要だと思う。

その場にいる人間が、その場で強く停滞を感じ、身動きがとれなくなっている人間が、同じようにもがいている人間と、手に手を取って、力を合わせて、「思考停止」とか「思い込み」とか「読まなければいけない空気」とか書かれた分厚い壁をぶっこわす。

それが、いま、ぼくが大切にしたいことだ。

パラレルに、生きる。

 

 

 

 

toya.hatenablog.com

toyaさんのこのエントリを読んで、ぼくはパラレルなのかねじれなのか混線なのかわからないが、とにかく同時に2つ以上のことを抱え続けてる人生だなと思った。

 

古くは塾と学校のかけ持ちから始まっていて、なぜ塾を先に言ったかというと、そっちのほうが自分の本拠地だと思っていたからである。

 

実際は学校にいる時間のほうが長いが退屈だし孤独で、塾にいる時間は勉強するのは苦しかったがやればやるほど結果が出て、大学生の先生たちの大人びた会話にまじったりするのも楽しくて、居心地がよかった。

 

つまりはそこを本拠地と思うかどうかは居心地がいいかどうかで、それは大人になっても変わらないかもしれない。

 

じゃあ居心地がいいって何なのか、と考えるに、ぼくの場合は、はっきりいって、自分が大事にされる場所だ。

 

だが誰もがそういう扱いをされる場所というのはなかなかないし、運よく見つかった人はそこから離れることがない。

 

誰かが大事にされる場所というのは、誰かは大事にされない場所であることがほとんどだ。

 

だから、いくら自分の本拠地を探してまわったところで、色々な人が集まっている場を居心地のいい場にしようと思うなら、そこで自分が大事にされる理由を自分で考えて、自分で作らなきゃいけない。

 

しかしいつでもそれがうまくいくわけじゃないから、パラレルになる。

 

パラレルに自分の居心地のいい場を探し続ける。

 

 

もちろん、そうじゃない、生きるためにやらないといけないライスワークと、本当にやりたいことをやるライフワークを分けて取り組む生き方がパラレルだ、という見方もあるし、ぼくもそれはそれでその通りだとも思う。

 

あるいは、会社と家庭の両方を行き来している時点で十分にパラレルだとも思う。

 

思うに、パラレルという概念が広まることで、多くの人が複数の違う価値観を持つ共同体に関わりを持っていて、誰もが今この場の目的に強く賛同し全てを賭けて取り組もうとしているわけではない、という状況が見えやすくなっただけじゃないだろうか。

 

ぼくはそんなパラレルを前提とした世の中は生きやすくていいな、と思うし、一方で、だからこそパラレルではなくひとつの世界に集中する人の存在感が高まっていくかもしれない、とも思う。

 

世の中がパラレルになっても、一人ひとりの資源は有限で、だからこそ何に自分の時間を使うのかはすごく大事になってくるし、それを自分で決めて、自分で選ばなきゃいけない時代になっている。

 

まあそれでも、やっぱりぼくはそういう世界のほうが、逃げ出す先のない閉ざされた世界よりはずっとマシだと思うし、今の不遇を誰かのせいにしながら生きるよりは、あーもう精一杯やったけど難しかったな、悔しいなと思いながら、しかしギリギリまであがいていたいなと思う。

 

そのあたりのことは、時代が変わっても、そんなに変わらないのかもしれない。