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おつかれさまですなんてメールに書くのは、やめなさい。

中田課長



おつかれさまです。

大変僭越ながら申し上げます。

空想の世界では魔よけのお札みたいに持ってるだけでありがたいものがたくさんありますが、残念ながら現実世界のコミュニケーションにおいてはそんなものはどこにもありません。

メールにおつかれさまですと書いておけばなんとなく気を使った感じになるだろうと思っている人がたくさんいるせいで、今日もなんの意味もない大量のおつかれさまですが生まれては読まれもせずに消えていくのです。

それだけではありません。

朝はまだ出社したばかりでつかれてもいないのにおつかれさまですと書き、昼はコンビニのおにぎりに向かっておつかれさまですと手を合わせ、夕刻になって今度は本当につかれてきた頃に、すみませんちょっと込み入った話がありましてねと、そこはおつかれさまですじゃねえのかよ。

まったく何の役にも立たないおつかれさまですを書いてるヒマがあったら書き出しをちょっと工夫したほうがいい。

中田課長

お喜びください。

本日の得意先とのミーティングですが、
無事に完了いたしました。

とか

中田課長

実はですね。

本日の得意先とのミーティングですが、
現在の内容で問題ないということを双方にて確認いたしまして、
無事に終了いたしました。

とか

中田課長

知ってた?

今日の得意先とのミーティング、
ただの確認作業だけで何も前に進まんかったわ

こういう時間のムダみたいな作業はほんまに必要と思う自分?

とか

本当に伝えたいことだけ書いたほうがええんちゃうの。

多少のマナーがどうとか常識がどうとかそんなことでキレてくる人なんか相手にせんでええよ。

そんな人はほんまにあんたのことを必要としてない、ただエラそうにしたいだけやから。

人生は有限やでえ。

エラそうにしたいだけの人にエラそうにされるためだけに自分の時間を使うなんてもったいないだけやろ。

ま、エラそうにされるのが気持ちよくてたまんねえってやつは好きにしたらいいけど、俺はゴメンだね。

俺の時間は俺のための時間だ。

それを何に使うかなんて他人には決められたくないね。

ただな、ひとつだけ大事なことがあってさ。

残念ながら、他人のために使う時間にしか、そいつが生きてる価値ってのはないんだよな。

だからよくよく考えて、てめえのその大事な時間をさ、誰のために使うかは考えろよな。

おい。

おい中田。

しっかりやれよ。

てめえの、心のこもってない、どうでもいい気づかいのありそうでまったくない言葉なんていらねんだよ。

それより動けよ。

そうだな、まずは俺のために動いてみろよ。

俺が何をしたら喜ぶか考えて、動いてみろよ。

中田。

しっかりやれ。

動け。

動いてヘトヘトになれよ。

その時に俺はお前にはじめて、心をこめて言ってやるよ。

おつかれさまですってな。

ウンチまみれの生活の先に、あるもの。



結婚したときに、ひとつ大きくほっとしたことがあって、それは、これでもう恋愛なんかしなくてよくなる、ということだった。



しかし人生には他にも大変なことがたくさん存在して、その多くは遠い未来だから、あるいは自分がそれにあてはまるかどうかは不確定だから、という理由で目に入らないだけだ。

だがまあ多くの人はその大変なことのひとつやふたつは体験せざるをえなくなるし、それは誰に、いつやってくるかなんてわからないのである。

子育てしながら働く、ということをひとつとっても、こんなにウンチとおしっこと汗にまみれた、全然おしゃれじゃない暮らしの連続を意味するとは思わなかったし、汚物がひょっとしてシャツについてないか気にする時間さえもったいないと感じるようなスピードで生きることを意味するとも思わなかった。

きっとこのあとも色んなトラブルや苦労が待ってるだろうし、そのうち介護とか自分の病気とか老後の貧困とか、考えたくもないようなことにも関わることになるのだろう。

もしぼくが若い頃のぼくに、お前の人生にはこの先ウンチとおしっこまみれの日々が待っていると伝えたら、若いぼくはどう思うだろうか。

きっと、ぼくがこれまでそうやってきたように、そんな先のことなんてよくわからないと聞き流すのだろう。

あるいは、そんな運命は自分の力で変えてみせると言うかもしれない。

それは正しくて、そんな運命なんか簡単に変えることができる。

結婚しなきゃいいだけだし、親を介護しなきゃいいだけだし、あるいは全部外注すればいいだけだ。

だけど、それはそれで仕事まみれの生活や酒まみれの生活や退屈まみれの生活が待っているだけである。

結局、ぼくらはどうあがいたって、人生のどこかの段階で何かにまみれ、もがけばもがくほど深く沈んでいくような場面に出くわすのだろう。

そしてそれはあまりに辛かったり情けなかったりみじめだったりするので、まるでそれが永遠に続くかのように感じるのだろう。

だけど忘れちゃいけないのは、どれだけ排泄物やため息や恨み節にまみれた暮らしをしていようとも、ぼくらはいま、ここに、いるのだ。

それは、いま、ここに、いない人や生き物や霊とかなんとかよくわからないものたちには絶対に手に入れられない事実である。

ぼくはこのことを大切に味わいたい。

たとえウンチとおしっこと汗の混じった耐えられないような味だったとしても、それが生きるということの醍醐味だからである。

自由な場所なんて、どこにもない。



今朝の地震は、大きな被害がなかったようで本当によかったけれど、空間的・位置的なものにしがみついている、あるいはとらわれている息苦しさのようなものを、より強く感じもした。



情報革命によって、人がその空間に存在している意味は少しずつ失われている。

鈴木謙介さんがいうところの「空間的現実の非特権化」は着実に進んでいる。

しかしそのせいで、かえって、空間的現実のどうしようもない重さ、すぐにはそれをなんともできない無力感、みたいなものを余計に感じる気もする。

原発の汚染水が増え続けていることや、関西にも大きな地震がやってくることや、あるいは災害が来なくてもこの国がものすごいスピードで老化していってることは、いますぐはどうにもできない確固たる空間的現実として、ぼくらにのしかかっている。

ぼくらはインターネットの力を借りて、空間的現実から離れ、虚数化された肉体になって色んな世界を見に行くことができる。

しかし、たくさんのことを知れば知るほど、わかるのは、自分が何もできないこと。

そして、もはや完全に自由な場所なんてないこと。

どんなに偉そうなことを言ったって、月収30万円の船に必死にしがみついているだけなのだ。

ぼくは別に、そんなに深く絶望しているわけではない。

生きるということは、色んな絶望と希望が入り混じった雲の中を進み続けることなのだ。

けれども、それだけじゃ、あまりにも生きるのは退屈で、息苦しくて、さえなさすぎる。

なんとなく、創造、という概念があらわれるのは、そういう、空気が薄くなってる場所からなのかもな、という気がする。

だけどそれはただの予感にすぎない。

しかし進んでみないことには、物語の先は読めないことも、たしかだ。

こうやって通信機器の画面を見ていたって始まらないことが、たくさんある。