正しさが、世界をつまらなくしている。

 

 

 

論理が人間の文明を発達させてきたのは間違いないと思う。

 

 

 

だけど世の中の全てのものがまだ論理的に説明しきれるものではない。

なのに現時点で全ての現象が全て説明しきれる、正しい世界の見方がある、と思いこむのは、すごく苦しい生き方だと思う。

 

あなたは前、こういうことを言いましたよね、なのに今度は違うことを言ってる、と怒る人がいるけれど、それは当たり前の話で、人間の考えは変わっていくものだし、変わらない人のほうが本当に大丈夫かなと思ってしまう。

 

正しさばかりを気にしている人は、雷に打たれるような突然のひらめきや、いきなり恋に落ちるときめきを味わったことはないのだろうか。

いや、きっとあるはずで、しかしそれはとても個人的な現象だからと片付けてしまいがちだ。

 

なぜ、正しさばかりを気にする人は、個人的で、論理的に説明ができなくて、わけのわからぬ感情を、他人に表明したり、問題提起したりするものではない、と思いこんでいるのだろう。

 

そのわけのわからぬ感情こそが、誰かが困っている状況を明らかにし、あるいはうれしいと感じることを共有し、今よりもっとマシな世界を作る原動力になるはずなのに。

 

どうか、正しさばかりを気にする人よ、論理という鎧に身を固め、理解できないものを無視し、自分の心の声に耳をふさぐのを、ちょっとやめてみてほしい。

 

そこに、あなたが本当に欲しかった答えが転がってないだろうか。

トートバッグに、なりたい。

 

 

 

 

仕事では、大きめのトートバッグを使っている。

 

 

 

若い頃はカッコつけてイタリア製の革のブリーフケースを持ってたし、子どもが赤ちゃんの頃は、パソコンも哺乳瓶も入るファザーズバッグ(斜めがけで両手が空く)なるものを愛用していた時期もある。

 

このファザーズバッグは保育園に送ったあとそのまま出勤もしやすく、なかなか良かったのだが、肩から斜めがけにするとジャケットが崩れてしまうのが気になっていた。

 

ちなみに家族で出かけるときは、長く歩き続けたり急に走ったりするのでリュックを使っている。

しかしリュックは背中に密着する面積が大きくて夏場は暑いし、冬はコートやダウンジャケットの上から背負いづらいので、ほとんど仕事では使わない。

 

それで今のところのぼくの結論は、トートバッグである。

条件は4つで

 

・持ち手が長く厚手の上着を着ていても肩にかけられる

 

・普通よりもちょっと大きく一泊出張ぐらいは耐えられる。

 

・床や椅子の上に置いても自立する。

 

・価格が安くて気軽に毎日使える

 

といった感じ。

 

肩からかけられたら両手が空くし、必要なときにサッと荷物を取り出せる。

 

ちょっと大きいと、パソコンを入れてもまだ色んなものが入る。

ぼくは必ず本を入れておきたいし、折りたたみ傘も中に転がしておけばいいし、夏はジャケットをくるっと丸めて入れておけるし、冬はマフラーがいらないときにしまう場所にもなる。

保育園のカバンに入りきらない、本人は苦心して作ったつもりの変な製作物とかも、まあよっぽどの大作でなければなんとか入る。

 

あとはちゃんと床や椅子の上で手を離したときに、ポンと自立すれば、中身がぐちゃっとなったり、そこから何かがコロコロと転がり出てあせったりしなくて済む。

 

それで価格が安ければ、気兼ねなく毎日使える。

実はそこが一番大事な気がしている。

カバンというとなんとなく服とかアクセサリーとか、場合によるとそれ以上に気を使わなければいけないイメージもある。

しかし、だから大事に扱わなくちゃとか、毎回違うものを持たなくちゃとか、変に気を使いすぎた結果、あんまり使わなくなっちゃったり、パンパンに入れるのはカッコ悪いからとサブバッグも一緒に持ったりして、カバンとしての使命を果たせてないことも多いんじゃないだろうか。

カバンをしっかりカバンとして使い込んで、その役割を全うさせてあげたいものである。

 

あと、トートバッグは中ががらんとしすぎて荷物を仕分けられないと気にする方もいるが、それならバッグの中に仕分け用のミニバッグやちょっとしっかりめのエコバッグを入れておくとよい。

ぼくは、小物は無印良品のサチェットに入れてバッグの中に忍ばせているが、なかなか便利だ。

 

それでまあ思うに、ぼくはこのトートバッグみたいになりたい。

いちいち手間をかけなくても大丈夫で、許容量が大きくて、自立していて、いつも気軽に相談できる、そういう人間になりたい。

 

しかしまあ実際は、いちいち理解させるのに手間がかかり、すぐにいっぱいっぱいになり、人に頼りがちで、あんまり話を聞かない、そんな状態なので、トートバッグってすげえなあ、と思うのである。

サードブロガーを、続けてみて。

 

 

 

なんだかんだいって7年近くブログを書いているようだ。

 

 

 

当時は影響力の大きな書き手はアルファブロガーと呼ばれてもてはやされ、アルファブロガー同士で盛り上がり、そういう存在になろうとせっせとエントリを書く人と、それを周りで見て嫉妬する人とがいた。

ちょうど職場で表現者同士の小さな仕事の奪い合いに疲れていたぼくは、ああブログの世界でも同じなのかとげんなりして、もうそういうのはええやん、アルファブロガーでもそれを追いかけるベータブロガーでもなく、自由に書きたいことを書くサードブロガーになろうよ、と言っていた。

 

それで、7年近くを振り返るに、ぼくはちゃんとサードブロガーでい続けているなあと思っていて、まあ家庭と仕事にほとんどの時間を使っていてすっかり書く機会は減ったけれども、たまにフラッとやってきて、書きたいことを書いて、また慌ただしい日々に戻ってゆく。

うれしいことに、たまに他のネットメディアでも書いてみませんかというお誘いもいただけて、そこで小さな芸を披露させてもらってホクホクとしている。

ブログはぼくにとっては相変わらずサードプレイスなのだ。

 

続けるというのはとても難しい、と心から思う。

生物学的にも人が何かに夢中になり続けられるのは3年が限界だそうだ。

自分の人生を振り返るに、たしかにだいたい3〜5年ごとに関心事が変わっていってて、それなりに長くやっていた広告クリエイターの仕事も、関心テーマはそれぐらいの周期で変わっていった。

レバレッジをかけるとか、一点突破とかよく言うが、これを短期的な意味でとらえるとしんどくなると思う。

一点突破した人の話を聞いてると、周りからそう見られるようになるまでもずっと同じことに関心を持ち、それをああでもないこうでもないとゴチャゴチャしながらも、ずっと同じテーマについて挑戦し続けていて、それがだいぶ後になってから発見されて、一点突破だ!と呼ばれているだけの場合がほとんどである。

 

もはやこうなると好きとか情熱とかいう美しいものより、偏執とか中毒のほうが近い気がする。

定期的に関心事が変わるぼくはそこまで危ない因子を持ってない、まともな人間だという証拠である。

それでも断続的ながら7年近くブログを書いてるということは、関心が保たれる期間を少なくとも一周は過ぎている。

場合によると二周目も終わりかけているかもしれない。

中毒とは思わないが(そればっかりは自分ではわからないが)なんらかの力がそこには働いていて、それは承認欲求とかもあるんだろうけど、それよりももっと次元の低い、生理的な現象に近い気がする。

 

いずれにしたって、こんなに手軽に、こんなに長く、こんなにマイペースに続けられる何かがある自分はとても幸せだと思う。

 

サードブロガーでよかった。