読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

赤ちゃんの、取引。


どういうサービスなのか詳しくはわからないけれど、トラックの壁面に赤ちゃんの顔の写真と一緒に大きな字で、赤ちゃん取引、と書かれていて、それはかなりのスピードで右折して去っていってしまったので、よっぽど急ぐ取引があったのだろう、ひょっとしたら赤ちゃん割引の見間違いかもと、もう一度確認することもできなかった。

こんな週のあいだの祝日でも、急ぎで赤ちゃんの取引をしたいと言ってくる依頼人もいるのだろう。

今日は秋分の日だと息子が言っていて、それで自分は祝日をただの祝日だとしか思わなくなってからかなり長い時間が経っていることに気づいた。

毎日ちゃんと手帳を見てる。ぼくの手帳は朝の5時から24時までの予定が書き込めるようになっているのが自慢で、それをできるだけ真っ黒に埋め尽くすのがちょっと前までは好きだったが、最近はできるだけ白い部分を残すことのほうに力を入れている。力を入れていても勝手にスペースはどんどん黒くなってしまうので、ぼくはできるだけ文字の面積が小さくなるような予定を先に書き込んでしまうようにする。

作業、とか。取材、とか。

作業、とだけ小さく書かれたスペースをたくさん確保しておけば、手帳の白さはそれなりに守られるのだ。

そうやってぼくは手帳の白さについては毎日腐心しているのだが、祝日がいったい何の祝日なのかなど気にしたことはほとんどない。日付についてはまだマシで、今日はアメリカでテロのあった日だなとか、広島に原爆が落とされた日だなとか、神戸の震災の日だなとか、それなりに思い起こされることはあって、しかしそれは仮に得意先との雑談で使われる程度にすぎなくても、それなりに仕事と関係のあることだったりする。

赤ちゃん取引をしたいと思った人は、今日が秋分の日だということを知っていたのか、それとも、そんなことを気にしている場合じゃなかったのか、それはわからない。しかし取引に向かう車はひどく急いでいた。少なくとも車の運転手にとっては、今日がどんな日であろうと、取引の行われる日でしかない。

受け渡しをする赤ちゃんがいったいどこに引き取られていこうが、そこで何が行われようが、自分の業務とは関係ないことだ。さっさと時間どおりに目的地に到着して、運んできた赤ちゃんを依頼人に渡して、受け取りのサインをもらって、そいつを雇い主のところまで持っていって確認してもらったら、急いで家族が待ってる自宅に帰るのだ。わが家には先月生まれたばかりの次男坊も待っている。見知らぬ誰かの赤ちゃんにかまってる場合ではない。

秋分の日というのは昼と夜の長さが同じになると言われているが、実際は少し昼のほうが長いとウィキペディアには書いてあった。

やっぱり依頼人は、今年中に赤ちゃんを取引するなら今日が最後だと思ったのかもしれない。

幼い命のやりとりをするのだ、せめて生命の源たる太陽が長く出ている季節のあいだに、と考えたのだろう。

おそらくひどく悪い人間ではないけれど、子供のことはあまり知らない人物のようだ。

生まれたばかりの赤ちゃんには昼も夜も関係ないのだから。

正解なんかに、負けやしない。

 

 

 

 

受験戦争を経験したせいで、正解ばかりを気にして生きてきた。

 

 

 

社会に出ても、得意先が喜べば正解、上司が喜べば正解、賞を獲れば正解、出世すれば正解、いつも何が正解なのかばかり考えて生きてきた。

それ自体は間違いでもないし、正解でもない。

はっきり言えばそんなことはどうでもいいことなのだ。

 

大切なことは、どんなつまんないことであっても、自分が何をやりとげたいか、ということだけであり、その何かは別に変わったっていいし、自分の中になくたってよい。

家族がやりたいことを応援するのでも、アイドルが売れるのを支えるのでも、なんでもいい。

 

そしてもっと大切なことは、それを追いかけるということを決めたら、他には何の正解もないということを知っておくということだ。

 

色んな人が色々言う。

あの人には気に入られるようにしたほうがいいよとか、賞を獲るなら審査員を分析したほうがいいよとか、社内行事には参加したほうがいいよとか色々言うし、それらに素直に耳を貸すことは間違いではない。

けれども、どれ1つとして、自分にとっての正解ではない。

どうしたってキーマンとの相性が悪くて改善できないこともあるし、審査員に当てにきた作品ほどつまんないものはないし、社内行事に一度も参加せずに役員になった人もいる。

何が正解か、ではなく、何が正解に思えるか、しかそこにはない。

それでもつい人は、みんなが正解だと言うことを律儀に正解だと思いこんで、あるいはこれが正解なのだと言いふらして、同じことを繰り返し、じっと我慢をして生きていく。

 

ぼくは、もうそういうのはごめんだ。

残された時間もどんどんなくなっていく中で、他人が勝手に作った正解なんかを追いかけているヒマなんて、もうない。

自分が勝手にこしらえた正解(それは妄想でもよい)を好き勝手に追いかけて、勝手に失敗したり、勝手に工夫したりして、勝手に生きていきたいのである。

それは正解というよりも、自分で問題そのものを作っていくプロセスなのかもしれないけれども。

 

などというぼくの話を鵜呑みにする必要も全くない。

 

いつだって、正解は、自分の中にしかないし、それを見つけるのもまた自分しかいないのだから。

ハッピーエンドは、望んでいない。



自分の人生を振り返ってみると、これはいかにもハッピーエンドだな、みたいな場面が、決してたいしたことではないのだけれど、いくつかすぐに思い起こされる。



しかし残念ながらというか幸運なことにというか、ぼくの人生はまだ続いていて、それで、自分がいまハッピーかどうかというのを、それらのハッピーエンドとなんとなく比べているような気もする。

だけどそれは悪くない話だと思っていて、なぜなら仮にそのハッピーエンドな瞬間よりもいまがハッピーじゃないとしても、自分には一度ないし二度三度とハッピーエンドを迎えられた経験があるわけで、もうあとはどれだけ記録更新に取り組もうか、みたいな、自分との戦いないし折り合いをつける作業のような気でいられる。

辛いのは、他人のハッピーエンドを自分のハッピーエンドと勘違いしてしまうことである。

有名クリエイターとして大活躍することや、会社の役員になって経営手腕を発揮することや、高級住宅街に居を構えて外車を乗り回すことは、ぼくのハッピーエンドではないのだが、しかしそれをいつのまにか自分のものだと思い込んでいたりする。

ややこしいことに、人生の台本には名前が書かれていないので、気づかないうちに他人のそれと差し代わっていても、そのままだったりするのだ。

別にそれでも構わない人は構わないのだろう、そういう人は、他人の台本だろうが自分の台本だろうが難なくやりきることのできる能力を備えた人か、あるいはもともと自分の台本なんて書くつもりもない人だろう。

しかし少なくともぼくは自分だけのハッピーエンドを迎えたいし、誰かが勝手に決めたハッピーの定義に簡単に乗っかるには、ちょっと年を取ってややこしくなりすぎている。

もっといえば、もはやぼくはハッピーエンドを望んでもいない。

欲望なんてものは満たされないものだし、万が一それが満たされたとしてもまた新たな欲望が生まれるだけだ。

もちろんあまりにも理不尽な目にあって人生を終えるのはイヤだけど、しかしまあそうだとしても、いやあ我ながら最後までなかなかしつこく抵抗できたなと思いながら消えていくのも悪くはない気がする。

若い頃は早く欲望を満たしたくて、早く幸せになりたくて、焦っていた。

いまは、自分の欲望とじっくりと付き合っていきたい。

そして、今までよりももっとややこしくて、凶悪で、手強いやつに育ったところで、苦労して、やっとの思いでしとめたいのだ。

そんなわけで、ぼくは一般的な幸せについての話をするのはあまり得意ではない。

もし、相手がとんでもなく凶暴な欲望を飼っていたとしたら、嫉妬のあまり、どうなるかわからないからである。