頭の回転が速い、というのが褒め言葉なのは子供の頃だけのように思うことが多い。
僕は本当に頭の回転が速い人たちを見てきたので自分がそうだとは決して思わないが、それでも働きはじめた頃には「お前は頭が速く回りすぎる」と指摘されることがまあまああって(今でも時々ある)、それは完全に注意としての言葉だった。
頭の回転を速くするということの意味は色々あるだろうけど、一つは最短ルートを見抜こうとする、ということだと思う。
ゴールにたどり着くために有効な手段は何か、それを獲得するための方法は何か、ということについて自分でどんどん仮説を立てて検証を重ねていき、一番速くたどり着ける経路を見つけることだ。
でも「回転が速すぎる」と揶揄される場合は、たぶんその検証をミスっている。
きっと事態はこんな風に動くはずだという計算がうまく働いていない。
それは、なぜか。
僕の場合でいえば、どれだけ速くたどりつけるルートを思いついたとしても、自分以外の人間がどのように動けばよいのかまでちゃんと考えていないからだ。
あるいは、わかっていたとしても、ついイラッとして待ちきれないからだ。
本当に頭の回転が速い人間というのは、そのイライラすら周りには見せない。
頭の中でブーンとファンが高速で回っている音だけがわずかに漏れ聞こえてくるだけだ。
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阪急東宝グループ創始者の小林一三氏の言葉にこんなものがあるそうだ。
百歩先の見えるものは狂人。
五十歩先の見えるものは犠牲者。
十歩先の見えるものは成功者。
現在が見えぬのは落伍者。
「頭の回転が速すぎる」と揶揄される人間は、この「狂人」なり「犠牲者」にあたるのだろう。
そして、多くの狂人と犠牲者が切り開いてきた血道を遠くから眺めて、「成功者」はたった十歩先だけを計算すればよいのだろう。
これはまあまあ色んな場面で当てはまるなあと感じる。
仕事の現場で活躍する人よりも後方で何やら画策している人のほうが出世したり、あふれるほどのアイデアをどんどん出す人よりもそれをまとめて形にする人のほうが評価されたり、まあそういうケースはいくらでも思いつく。
ううん、たしかに。
自分自身の「成功」だけを願う場合は、自分以外の狂人や犠牲者たちをいかに作っていくのかを考えることのほうが、未来を最速で見通すことよりもずっと得策なのだろう。
そして、この現実というやつが動く速度というものは、僕が思っているよりもずっとのろまで、あんまりそればかり気にしていると本当にイライラして精神衛生上よろしくない、という現状認識はしておいても悪くないと思う。
だから、つい何もかもが面倒になって、ちゃぶ台をひっくり返したくなる衝動に駆られた時は、この言葉を思い出すようにしている。
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簡単に言ってしまうと、色々と考えている時ほど、我慢が大事だよね、という身も蓋もない話である。
ただ、本音としては、僕は自分自身が「狂人」になっても「犠牲者」になっても構わないとは思っている。
もちろん家族を路頭に迷わすわけにはいかないので、「のろまな現実」とはじっくり付き合うことで、生きるための最大限の努力はする。
でも、僕は「成功者」になんか興味はない。
自分が生きているあいだに、どれだけ面白い未来に出会うことができるのか、どれだけ不思議な体験ができるのか、そのあたりが気になるのだ。
そのためなら、自分が、怪しいクリーチャーに変貌をとげるのも悪くないと思う。
常に好奇心というエネルギーに満ちあふれている危険なモンスターとなって、あるいは倒れても倒れてもさらに力を増してよみがえってくる恐ろしいゾンビとなって、この世界に楽しい混乱をもたらす。
どれだけ小さなことでもいい。
そこで、ちょっとでもワクワクドキドキする時間を過ごすことができれば、僕はその瞬間に本当の意味で「成功者」になれるのである。