幸せの、正体。





幸せ、とは何か。


先に結論を言ってしまえば、それはただの言葉でしかない。


僕は、他人が獲得していて自分にはないものに非常に敏感なので、それを手に入れることを幸福だと思ってしまうけど、それは全くの思い込みであって、その幸福(と思っているもの)を手に入れるやいなや、それ以外に自分に不足しているものに気づき、すぐに不幸になる。


しかし僕は、幸せを手に入れようと努力する行為自体を、否定したいとは思わない。


自分自身のことを振り返っても、クリエイターになりたいと無我夢中に努力していたことや、仕事のモチベーションを失っても家族の笑顔を見続けたいがために我慢を続けている現状を、なかったことにしたいとは思わない。


結局のところ、この現実においては、「ただ生きて、命を維持している自分」というものがあるだけだ。

そこで本人が幸せを感じようと、不幸を味わおうと、そんなことは大宇宙にとってはどうでもいいことだ。

そして、無限に広がっているように見える宇宙にすら、いずれは寿命が来るというじゃないか。


ならば、僕は、自分が生きているほんのわずかな瞬間を、どのように過ごすべきなのか。


いまの僕の答えは、いたってシンプルだ。

必死に生きれば、いいのだ。

必死に働き、必死に遊び、必死に悩み、必死に救いを求め、必死に未来を想う。


今晩、僕は交通事故に逢って死ぬかもしれない。

翌朝、脳梗塞で眠ったように死んでいるかもしれない。

あるいは、通勤中に線路に落ち、電車にひかれて即死するのかもしれない。


その瞬間までに、僕はどれだけ自分の命の炎を燃やすことができたか。

もしも幸せというものにKPIがあるのだとしたら、それだけだと思う。


何が得られるのか、何が失われるのか、そんなことをいちいち勘定していたって、キリがない。

自分の心のおもむくままに、進めばいい。

よもや、誰からどう思われようが、どうでもいい。


それでも、もし道に迷ったり、孤独のあまり、どうにも進めなくなった時は、あたりかまわず大きな声を上げることにしよう。

おおい、どうやらこちらは、にっちもさっちもいかない感じがするぞお、と。

それに対する返答があるかどうかは、神のみぞ知る、だ。


そしてもし、あなたが、遠くから大声で誰かを呼んでいる時は、僕もそっちにどなり返すことにしよう。

おおい、こっちも、なんとも難しい状況にいるぞお、と。

しかしお互いにこの命が尽きるまでは、最善を尽くそうぜと、どなり返すことにしよう。


そしてもし、幸せというものが存在するならば、そんな一瞬のすれ違いの瞬間の中に生じる、わずかな心の触れ合いでしかないのだと断言することによって、あなたと僕の幸福について、ささやかな祈りを捧げることにしよう。