幸せの話の次は、神様の話。






昨日のエントリには、やや極端なことを書いた。


今読みなおすと、なんだか自分の幸せ以外に一切興味を持っていないアブナイ奴なんじゃないかという感もあって、あるいは、どうせ人間死んだらおしまいやねんから、やりたいことを追求したらええネン的な、無責任な印象もある。

まあ、それでもあながち間違いではないのだが、これはあくまで大きな方針であって、もちろん僕だって個々の案件に対しては損得勘定やリスク低減策を発動させているわけで、やはり不親切だなとは思う。


僕の悪いクセで、いったん乱暴な仮説を放り投げあうことで面白いアイデアを集めておいて、あとでワチャワチャと取捨選択したり、ちゃんとした道筋に整備し直したらいいじゃないかと、つい、なってしまう。

しかしそのやり方を成立させるためには、今からそういうルールでやりますよ、という宣言が必要だし、いくらブログとはいえ、何の符丁もなしに始めてしまうと誤解も混乱もあるのが当たり前である。


そのあたり、池田仮名さん(id:bulldra)なんかは、鋭い角度で切りこみながらも、ものすごく丁寧に議論を進めていくので、読む人に対して親切だなと思う。

でもまあ世の中には、氏のように「丁寧にプロセスを進めていくことができる人」と、僕のように「支離滅裂なままでも気にならないヤツ」の両方がいるので、奇特な人だなあとは思うけど、別にうらやましくはない。

むろん、負け惜しみである。



そんな仮名さんのこんなエントリに、少し遅れて反応しよう。

自己愛のリスク分散と死体の山、または12人の妹がいれば1人死んでも悲しさは12分の1で済むのか問題 - 情報学の情緒的な私試論β

このエントリの中で仮名さんは、自分が達成したいと思う目標は、複数のポートフォリオにしてリスク分散しておいたほうがよいとは思うけど、実際はそれぞれで失敗した場合の心のダメージは意外と大きくて、かえってリスクが高まる可能性もある、というようなことを書いている。

これは12人の妹のうちの1人を失った場合において、1人の妹を失った場合の悲しみの12分の1で済むのかという問題に敷衍できます。そして12人居るということは「誰かが死ぬ確率」は1人の時よりも3人の時よりも確実に上がってしまいます。

 この事について仮想世界なのだから無視できるかと言えばそんな事はありません。「本当はAさんの事が好きだけど、これ以上は迷惑だろうし・・・Bさんのが誘いやすいし・・・」と、「ありえた自分」を殺していくのは実際の機会費用以上の痛みを伴うものです。

目標をいくつも持って負荷分散した方が良いとは書きましたが、それが精神衛生にとって大きなリスクになってしまう場合もあります。賭金が無料ないし充分に少なければ失敗しても大きな問題はないとしてきましたが、デフォルト時損失率が高いと「ありえた自分の幽霊」が何度も復讐しにきてしまう可能性があるという事も考慮する必要があります。

そんな時は「それは、あげたものです」という呪文を用意して債権放棄をしてしまう選択肢も用意しておいた方が良いかもっていう話です。そして「あげたとは思ってない自分」については、理想化自己対象やセルフ・ハンディキャッピングなどを用いて成仏させられないか。

この思考実験は、理屈としてはよくわかるつもりだし、僕自身も数年前から、心のサンクコストを「あげたもの」としてチャラにするために、定期的に神社にいって手を合わせることにしている(まったくの無宗教です)。

手を合わせているあいだに心の中で発する言葉は決めていて、「今日まで生かしていただき、ありがとうございます」という文言だけである。


つい、神社に行くと、みんなお願い事をするのだが、僕はこれは間違っていると思う。

というのも神社というのは、もともと「成仏できない怨念を封印し、鎮める場所」だからである。

そんな荒ぶる怨念に対して、願い事でもしてごらんなさい。

僕が荒魂だったら、これは好都合と、自分に続く新たな浮かばれない怨念を生み出すべく、精を出すにきまっている。


ついでに言えば、お賽銭を投げるのは、自分には叶えることができなかった願い事を「あげたもの」にするためである。

叶わなかった願い事は「ケガレ」となり、それを身体の中にとどめておくと良くないということは、昔から知られていたのだ。


つまり僕にとっての神社参りとは、「ありえた自分」をお賽銭と一緒に別の場所へと納める行為であり、また、ただ生き続けられているという事実に対して感謝することによって、いまの努力に対して見返りを求める気持ちを捨てる作業なのだ。


こういう作業によって心のデフラグを定期的に行っていることに言及せぬまま、「生きている以上、必死に努力するべき」みたいな乱暴なことを書くので、僕は人格を疑われるのである(繰り返すけど、それも間違いではないのだが)。



さて、怪しい話をしたついでに言えば、お賽銭と一緒に神社に投げ捨てられる「ケガレ」と、祭事にうやうやしく奉られる「カミ」とは全くの同一の存在なのだそうだ。

忌むべき「ケガレ」でたっぷりと満たされた御神体は、定期的な神事を通してたちまちのうちに「カミ」さまへと転化され、人々に幸せをもたらすものとして歓迎される、という構造がこの国では一般的だ。

鬼に対して投げたはずの豆をそのあと大事に食べたり、だんじりを乱暴にかち合わせた後、粛々と神社に奉納したりすることからも自明の話だろう。


では、いったい「ケガレ」が「カミ」へと生まれ変わるには、何が必要なのか。

それが「祭り」だったり「遊び」だったりするのだが、現代においてこの役割を果たしているのは、さまざまなコンテンツなのだと思う。

たくさんの人々から罵声を浴びせられて一気に燃え上がる炎上案件なんかも、実は「ケガレ」を一身に受ける一方で、それに便乗して盛りあがるサイトやブログのPVを飛躍的に増加させる「カミ」へと転化する装置として機能しているようにも思う。


まあ、このあたりの話は、今後もゆっくりとしていこうと思っている。


さて、この「ケガレ」と「カミ」の関係性についてご興味のある方は、この本をぜひご一読を(アフィリエイトです)。

ケガレからカミへ

ケガレからカミへ