あなたの労働は、僕には見えない。





シャドウ・ワーク、という言葉がある。



哲学者イヴァン・イリイチの言葉で、乱暴にいってしまうと「金銭が発生しない、見えない労働」のことだ。


代表的なシャドウ・ワークは家事である。

炊事、掃除、洗濯、家計の管理、そして子育てなど、さまざまな仕事があるけど、そのいずれにも金銭的な報酬は与えられない。

しかし、そこには確実に何らかの技術が要求され、さまざまな身体的資本が必要となる、もっとも基本的な人間の労働だ。



id:lunasaurusさんの

貴方、キャパオーバーですよ。 - 23、♀、NEET脱出(予定)

を読んで、僕は久しぶりに、この「影の仕事」という概念について考えるきっかけをもらった。

うちの家族は以前も書いたかもしれないけれど、両親と私、妹(大学生)、弟(中学生)の5人家族。

父は会社員。

母は平日は幼児教室のパート、祖母(母の母親)の事務手伝い、自宅で英会話教室を開いていて、土日は弟の野球の当番と多忙な日々を送っている。
野球の当番が無い時は、一応休み。けれども母は家の掃除を始めたりするので、本当に一応だ。

そんな母が昨年に体調を崩して入院したことがあった。
私が実家に帰ってきた理由の中に、母が倒れたからというのもある。

倒れた時に母は仕事を辞める。と決めたようだったけれども、職場の同僚や生徒たちに引きとめられ、結局週2回の勤務に減らした。
週3日は近所の祖母の家で事務の手伝いをして、週1日のみ自宅で英会話教室を開く。


そんな中、朝晩と食事を作り、洗濯物の片づけまで手が回るほど、私の母は器用で容量が良いわけではない。

実家に帰ってきてから、ここ2ヵ月の間、私がずっと洗濯物と晩御飯を担当していた。
他の妹弟、父は全くと言っていいほど家事を手伝わない。


つい最近、
「私だって他に色々やることあるんだから!」
と母に一喝されたので


4,5日ほど試しに洗濯物を畳むのをやめてみた。

案の定、体を拭くタオルのストックや台所の手拭きタオルのストックが殆ど無くなった。
和室には、山盛りの洗濯物。


ため息が出た。


畳まれていない洗濯物や、洗われていない食器の山たちは、母が追いついていないという表れだ。
母の元々のキャパシティから溢れ出たモノが、この洗濯物や食器たち。


私が帰ってくる前からこんな感じだったようだ。
今は私が夕飯を作っているから、スーパーの惣菜などは食卓に並ばないけれども、母が作っていた時はほとんど惣菜だった。
作ってないから悪いとかじゃなくて、もう「しょうがない」のレベル。作ってたら他のことまで手が回らないから。

なら、幼児教室の仕事を辞めればいい。

「でも、仕事するの好きだし…皆辞めないで欲しいって…」


当たり前だが、家事を維持するためには、時間的、金銭的、身体的、そして精神的なコストが発生し続ける。


もし「家事をするのは当たり前」という以上の認識が家族の中にないのであれば、本人にとっては大きなストレスとなるので、外に対して「色んな人から必要とされている」という精神的な充足を求めるのは、人間として当たり前だろう。

だから、氏の母上の発言は、別におかしくないと思う。

昔、主婦の時間の使い方について取材をした時、「アタシは遊びで忙しくて大変なの!」と本気で怒っていた方がいて、その時はまったく意味がわからなかったが、彼女の怒りの意味も、今となってはなんとなく想像できる。



家事だけではない。

それぞれの労働者が、適正な労働力を市場に提供し続けるためには、自分の生活を持続的に保持する必要があり、そのためには様々なシャドウ・ワークが発生しているのである。

近代の資本主義社会において、政府や企業は、このシャドウ・ワークの存在を認識したうえで、これを無視あるいは搾取の対象としてきた。

かつての大企業が社宅や家賃の補助、社員食堂、慶弔見舞金、慰安旅行などの福利厚生を充実させてきたのも、このシャドウ・ワークの存在が暗黙の前提だからこそだろう。


そして現在では、自己責任の名のもとにこれらの要素も削減され、もはやシャドウ・ワークは「本人がやりたいからやっているもの」として棄却されつつあるように、僕は思う。

結婚や出産は本人たちがしたくてするもの、そして自分たちのエゴで家庭を持つのだから、それを維持するのは本人たちの自己責任。

あるいは仕事のストレスを発散するために多少飲み過ぎようが、そこで酔っぱらって交通事故にあおうが、やりたいことをやった結果のことなのだから、完全なる自己責任。

こういった認識が、僕の職場でも浸透しているように感じる。



しかし、実はシャドウ・ワークというのは、金銭的な報酬が発生する仕事の中でも発生している。

仕事というのは、本来の業務ではない「見えない仕事」だらけだ。

任務遂行の鍵を握る重要人物への根回しや、反対派を取り込むための懐柔や、要求がエスカレートする顧客への対応や、それらのプロセスで発生するさまざまなストレスや精神的苦痛に耐えることも、十分に仕事といえるだろう。

しかし、こういう行為は、得意先に提出する見積書や企業のバランスシートに明記されることはない。

もともと、この世の中で、勘定項目として計上できる仕事なんてものは、ほんのわずかなのである。


そういえば現在のお金の役割の限界については、以前、ちょっとだけ考えたことがあるが、
お金の役割はもうすぐ終わると思う - 犬だって言いたいことがあるのだ。
僕はここで、いきなり貨幣改革をするべきだという話をしたいわけではない。


ただ、それぞれの身体に対して発生している「見えない労働」にちゃんと気づき、認識しておきたいな、と思っているだけだ。


ブログだってそうである。

僕が1円の得にもならないブログを書いて仕事のストレスを発散する行為だけが、「金銭にならない労働」なのではない。

貴重な時間を使って、それを読んでくれるというあなたの作業も、ものすごく大きな、しかし「見えない労働」なのだ。

そして、この種の大量の行為が織り込まれていくことで、インターネットの世界は構成され続けている。



極言すれば、世界のほとんどは、シャドウ・ワークによって形成されている。

この世は「見えないが、たしかに存在している行動」の総体であり、その一部として自分は存在している。


だからこそ、まずは自分自身のすべての行為を認識して、それらをちゃんと愛してあげること。

そこから始めることがすごく大切だと、僕はいま思っている。

そして、その先に生まれる他者への愛というものは、僕らがこれまで思っていた種類の「愛」とは違った、少し冷静で、構造的理解がしやすくて、多少の計測が可能なものになると思うのだが、その辺りの話は、また今度。