今日の電車の中で、同級生が「イタイ」子だという話で
大学生の女の子たちが盛り上がっているのが聞こえてきて、
ちょっと苦い気持ちになった。
僕も浪人したあげくに行きたくもなかった大学に入学し、
同級生たちに馴染めず、次第に行かなくなって留年した。
自分にとっては、かなり恥ずかしくて情けない過去で、
今でも時々、こんな夢になって出てくる。
僕は毎日、楽しく仕事をしている。
すると突然、思い出す。
「あっ!今日、大学でテストがあるのを忘れていた!」
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まあそんなわけで、僕は大学生活というものにトラウマを持っているので、
連休明けの、次第に新入生たちの中にグループが形成されつつある時期のことを思うと
いまだに逃げ出したくなるような、泣き出したくなるような、暗い気分になるのだ。
ところで、僕が大学にいた(いや、いなかった)頃、
学生たちはどのようにグループを作っていくのか、そのプロセスを考えると
大抵の場合「イタイやつ」「空気の読めないやつ」の陰口や噂話を共有することで
お互いの価値観を確認しあったり、「敵と味方」をなんとなく作ったりして
他の学生たちとの境界を形成していっていた。
中には、何か面白いことをやろう、とかいった
共通の目的のもとに集まる学生たちもいたと思う。
だけど、ついこのあいだまで受験生でしかなかった若者たちに
そんな高級な課題意識を要請するのは酷というものだろう。
だから「イタイやつ」というのは、グループを生みだすための触媒として機能していた。
しかし「イタイやつ」認定されてしまった者は大変である。
僕のように離脱して留年するのか、ぐっとこらえて黙って過ごすのか、
いずれにしてもそんなに幸せな大学生活は待っていない気がする。
僕は、今後も、僕と同じような目に会う人が出現し続けることを止めたいと思うし、
そのための方法を最近はずっと考え続けている。
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そして1つの解決方法が「コミュニケーションをなめらかにする」ということだ。
人と人のコミュニケーションというのは簡単なように見えて、
実は「相手に理解されないかもしれないというリスクを抱えてジャンプする」という
非常に危険で恐ろしい行為だ。
だからこそ、人々はこのジャンプを避けて、誰でも理解できるようなことしか話さないし、
何を言っているのかわからない奴の話はあえて聞こうとしない。
そして、仮にこの命がけの大ジャンプの結果、
着地に失敗しようものなら、まっさかさまに奈落ゆき。
キャンパス生活すべてを「イタイやつ」として暮らさなければならないのである。
この過酷な状況は、大学のキャンパスだけで起こっているわけではない。
政治家の失言からブロガーの炎上、主婦グループのいじめまで、
さまざまな場所で、「一度ジャンプに失敗したらおしまい」という事態が繰り返されている。
なんとか、自分の気持ちを相手に伝えようとする勇気を鼓舞し、
また、跳躍に失敗したとしても、やわらかい砂地に軟着陸させて、ダメージを軽減する方法はないだろうか。
その答えが、コミュニケーションにおける「なめらかさ」なのだと思う。
手がかりはいくつもある。
*非日常性
*ゲームやごっこ遊び
*ルールや約束ごと
*複数の人格を認める(分人)
*捨てることやあきらめること
*超越的存在の設定
*創造の訓練
*陰と陽を回転させる
*足し算による数え方
*恋愛感情の拡張
などなど。
これらは、コミュニケーションのジャンプ力を高めたり、
万が一落ちてしまった時の衝撃を吸収したり、
向こう岸から手を差し伸べたりしてくれる要素。
まあ、このあたりはまた今後も書いていこうと思う。
いずれにしても、現時点では、僕たちは
コミュニケーションに失敗したことを悩みすぎる必要は全くない。
そして、他人の勇気ある跳躍が失敗に終わったことを
いつまでも笑い続ける必要も、全くない。