変わることは、好きになること。






時々、子供が文字を書いたり数字を書く、単純なドリルをするのを見ている。

色々と気になることが多い年頃なのもあり、なかなか集中して取り組めなかったりする。

妻も僕も怒ったりなだめたり、あの手この手でやらせようとするが、上手くいかない。


そこで試してみたのが、ドリルを一枚やるのに何分かけてやるかを、子供自身に宣言させる、というやり方。

これがなぜか今の彼にはしっくりきたようで、自分で「次は3分でやる」とハードルを上げたりして

それが成功しようが失敗しようが、本人なりに楽しんでいるようだ。


さっきラーニングファシリテーターであるid:shiraber氏に教えてもらったのだけど、

学習には、ドリルのように「お手本をそのまま覚えればよい」「そのやり方を応用していけばよい」というタイプのものと

「自分の理解しやすいやり方で理解していけばよい」というタイプのものがあるそうだ。

で、前者についてはひたすら書きまくる反復練習や、動機づけ(頑張ればテストの点数が上がるなど)が重要で、

後者については、本人が理解しようとする努力をサポートしてあげることが重要らしい。

(shiraberさん、あってますよね?)


そういう意味でいうと「やる時間を自分で決めて、やらせる」というやり方は、

行動主義の典型と言えるかもしれない。

しかし、僕はこの「時間を区切る」というやり方にたどりついたのは、ちょっと別の理由からだ。



というのは、子供はすでにこの反復するだけの単純な作業に辟易しているのがわかったからである。

正確に言えば、前から「わかっていた」。

だけど、親がそれを認めてしまえば、子供は何も言うことを聞かなくなるだろう。

そう思っていた。


だが、僕は降参することにした。

仕方ない、事実を認めよう、これはつまんない作業だ。

そして僕だってそれを見るのは意外と疲れる作業なのだ(見ているだけなのに)。

だからこそ、さっさと終わらせてしまおう。

早くやってしまって、遊びに行こう。

そういうお互いの共有認識を確認したうえで、「これ、何分でやる?」と始めるのである。

すると子供も子供なりに覚悟を決める。

で、時間を区切ってやれば、後はゲームみたいなもんだから、それなりに楽しめたりする。

気がつくと、けっこうのめりこんでいたりする。



何かを教えたり、導いたりする作業というのは、

相手の心の状態や動きを知ることと切り離せないのだと思う。

また、同時に、自分自身がどんな気分でいるのかを伝える必要もあるし、

その結果、相手も自分も、その作業を通して変化していくことになるだろう。



ところが、つい僕は自分自身だけは変わらずに、

相手だけが変わることを求めようとしてしまう。

そして、そのやり方ばかりを躍起になって探している。

ブレるなとか、信念を持て、とか言われ続けてきたせいで

スタンスばっかりが気になって、どんどん自分にウソをつくようになる。



以前、「時代に合わせて変わり続けることの辛さ」ということに言及したけど、

やっぱり、時代だったり世の中という得体の知れないもののために「変わる」のは

すごく不気味だし、理不尽だし、今でも抵抗がある。

だけど、自分にとって大切な人のために

「変わる」ということはすんなり受け入れることができる。



そういう意味では「自分がどんどん変わっていく」というのは

「好きな人間がどんどん増える」ということと同義かもしれないし、

そういうのは悪くないなと、ものすごく乱暴に、そう思う。