冬ごもり、はじめました。



大阪はそんなに寒くないけれど、そろそろ冬ごもり。



色々と心残りなことだらけだが、これ以上あがいてもしかたなさそうなので、仕事のことばかり考えている頭を休ませて、冬の生活を楽しむことにする。
もっとも楽しむといっても毎日いくらでもやることはあって、それを普段はやらずにすませてきているだけなので、頭を休ませるぶん体にはしっかり働いてもらわないといけない。

以前、得意先の職場にお邪魔してそこの人たちと一緒に仕事をしていたことがあって、もちろん新しい環境に慣れるのは大変だったけど、実はそれはそれで楽だなと思った。
自分のやることが目の前にだけあって、他のことについてはほとんど考えなくてよかったからだ。
もともといくつものことを同時に考えられるほうではないくせに、ついあれもこれもと色んなことが気になっていると、それぞれがおろそかになっていくし、おまけにずっと頭の中で何かがぐるぐると回り続けているので、横になってもそのぐるぐるが止まらなくて、ちゃんと眠っていない。
ところがひとつの職場でひとつの目的のためだけに夢中になって働いていると、帰宅したときにはヘトヘトになっているので余計なことを考える余裕なんてなかった。
それは新鮮な体験だった。

子どもが生まれたときに2週間ほど休んで家の用事ばかりしていたことがあって、これはなかなかキツくて、これにくらべたらサラリーマンの仕事なんてずっと楽だなと思ったけど、それも良い気分転換にはなったと思う。

今回はそんな特別な機会も何もないけれども、少し無理をしすぎてガタがきているので、ああでもないこうでもないと無駄にぐるぐる考えるのはやめて、冬ごもり。

大阪はそんなに寒くないけど。

歩くように、生きる。



あとひと月で今年が終わる。



この1年は、自分なりに達成したいことがあったので、ずっと急いでいた。
とてもあせっていて、あっちのほうに進みたい、というものはあって、だけどもっと近くまで行って自分の目で確かめてみないとわからない、そんな状態でいた。
ところがその道中で、後ろから誰かが追いかけてきて、人手が足りなくて困っているからちょっと戻ってきて手伝ってくれとひきとめられたり、あるいは同行している人が進むペースが速すぎて辛いと訴えだしたり、そんな様子を通りすがりの人に見とがめられて注意を受けたり、そうやってモタモタしているうちに時間だけが過ぎていった。
そんな1年だった。
まだあとひと月残っているけど、まあそんなにたくさんは進めないだろう。

そうやって振り返ってみると、まったくもって満足のいかなかった1年だったな、と思う。
これからのことを考えると、ひどく気持ちはあせるし、頭が痛くなってくる。
だけど、まああせったところで状況は変わらないし、少なくとも進む方向だけは定まっているのだから、ずいぶんマシだと思うしかない。

よく考えてみたら、ぼくは厄年の最後の年だ。
それにしてはまあ無病息災だったほうじゃないだろうか。
夏にちょっと腕をケガしてしばらく行動するスピードが落ちたのは辛かったけど、無事に腕も動くようになったし、この程度で済んでよかったと思うべきなのだろう。
まったく余裕のない毎日だけれども、家族に大きなケガも病気もなく、なんとか1年を乗り切れそうで、それを感謝するべきなのだろう。

中学生の頃、塾の先生から、受験は短距離走ではなく長距離走です、いきなりスパートをかけてもすぐになんとかなるような世界ではありません、あせらず粘っていきましょう、というアドバイスをもらったことを憶えている。
そして、年を取って、いまやぼくが取り組んでいるのは長距離走ですらなく、ひたすら自分のペースで歩き続けることなのかもなあと思う。
歩くスピードというのは決して速くないので、なかなか目的地までたどり着くことはできない。

ひょっとしたら、本当にぼくが求めていることは目的地までたどり着くことではなくて、ただ歩いていくその行為なのかもしれない。
歩いていけば、天気も変わる、周りの景色も変わる、出会う人もいれば別れる人もいる。
ちょっとおいしいパン屋が見つかることもあるし、コンビニひとつないような場所を空きっ腹を抱えながらトボトボと行くしかないこともある。
だけど、歩くスピードでなら、そういった変化のひとつひとつを味わいながら、自分の好きなペースで進んでいくことができる。

もちろん、遠くに行く必要があったら電車でもバスでも飛行機でも乗るけれども、そうやってどこか遠くへと移動して、またその先で自分の足で歩く。
自分の足で歩いて、地面の感触を確かめ、そこに転がっている石の形を観察し、落ちているゴミを拾い上げ、あたりから漂ってくる何かを焼くおいしそうな匂いをたどり、同じように腹を空かせた人と出会って、おしゃべりしながら進んでいくことだってできる。
その楽しみを味わうために生きているんじゃないかなあと思う。

だから、まああんまりあせらずに、これからも歩き続けていきたい。

どっちみちぼくらは炎上しながら、生きている。




ぼくは基本的に、いつも叱られながら暮らしている。



いつも、色んな人から、ううんこれはちょっと違うんだよねとか、そういう話じゃないんだよねとか、こりゃあまったくダメだよとか、いつも叱られ続けている。
若い頃は、年を取ったらそういうことは言われなくなると思っていて、たしかに若い頃と同じようなことでは叱られなくなったけど、年を取れば年を取ったなりに新しいテーマが出てくるので、叱られることは絶えないのである。
このあいだも、はてなブログはいつボコボコにされるかわからない、とても厳しい世界だと言っていたら、ある先輩から、いや全然わかってない、あれはスナックです、厳しいなんてとんでもない、あなたは新参者として古株からの洗礼を受けてきただけです、と認識の間違いを叱られた。
たぶん、これからもずっと色んな人に叱られ続ける人生なんだろうなとあきらめている。

昨日、fujiponさんがネットで炎上しても書き続けるためには何が必要なのか、ということについて書かれていた。
fujipon.hatenablog.com

自分が炎上したときにコメントを読んでいると「あなたがこういうことを書いているのは、こういう理由でおかしい、本来はこういうことに注目するべきなのだ」ときちんと叱ってくれている人がいて、これはけっこう頭が痛いというか、本当にそうだなあと思ってしまう。
そういうコメントは、後でもけっこう覚えていて、ふといい加減なことを書こうとしたときにハッとブレーキをかけるきっかけになったりしている。
はてなブログはスナックだ、というのはそういう、人間と人間のやりとりに満ちている面も大きいだろう。

一方で、嫌な気分にさせられるのは、こっちをただの石ころや路上に捨て置かれた空き缶のような目で見て、ストレス発散のためだけに思いきり蹴飛ばしに来るコメントたちだ。
この人たちはぼくのことをはじめから蹴飛ばす対象としてしか見てないから、ぼくがどんな背景でどんなことを感じ何を本当は書きたかったなんてどうでもいい。
ただ気持ちよく蹴り飛ばしてスカッとしたいだけなのだ。
いかに叱られ慣れているぼくでも、普段の暮らしの中でいきなり蹴り飛ばされたり、突然殴りつけられたりすることはまずないので、こういう目に会うと気持ちが沈む。

最近は、そういった通り魔的な行動をする人が増えたような気がして、ちょっと憂鬱な気持ちになる。
朝の満員電車に乗ると、窮屈な空間の中でみんなイライラをこらえ、誰もワーとかギャーとか叫び出したりせずに目的地に着くまでの時間をじっと耐えている。
その代わりにスマホに向かって何か黙々と書きこんでいる人はたくさんいて、ひょっとしたらその中の何人かは通りすがりのブログ記事を殴りつけ、知らない人間の書く文章を思いきり蹴飛ばして、イライラを解消しているのかもしれない。
みんな色々とモヤモヤを抱えているのだろう。

きっとそんなことはこれまでもあったのだ。
バッティングセンターでにっくき上司の顔を思い浮かべてカキーンとやったり、レジでモタモタしているバイトの若者に一言嫌味を投げつけたり、カラオケで怒鳴りまくってスカッとしたりして、みんな何かを発散させてきて、その選択肢のひとつとして気に入らないネットの文章を殴りつける、という行為が増えただけなのだろう。

たぶんそういう人は、普段はとても疲れていて、無力さを感じることが多く、やりどころのない感情を抱えているのだろう。
それはぼくだって例外ではない。

だからこそ思うのは、そんな人こそ文章を書いてみてはどうだろう、ということだ。
いきなりブログみたいに不特定多数に読まれる場所に書かなくてもいい。
ぼくもブログだけでなく、紙のノートにふと思ったことを書くようにしている。
あれはムカついたとか、あれは悔しかったとかいうのはそこに書く。
ただまあ、最初はそういうつもりでいても、実際に書きはじめてみると意外とそんなことを書く気は起こらなくて、いつのまにか最近楽しかったことや面白かったことばかり書いていたりする。
そうやって書くことが楽しくなってくると、赤の他人をすれ違いざまにノックアウトさせる以外の趣味が生まれるわけだ。

書くことは楽しい。
それを一度でも知ってしまったら、誰かが一生懸命書き上げた文章をゴミのように蹴飛ばしたりはしなくなるだろう。

ぼくらはどっちみち人生のどこかしらで叱られ、絡まれ、あっちこっちで炎上しながら生きている。
だからこそ、せめて文章を書いているときぐらい気持ちよく時間をすごしたいものだ。

だから最近はひどいコメントを見かけたら、ああこの人はまだ本当の楽しみを知らない人なんだな、早くこっちに来たらいいのにな、と思うようにしている。



もちろん負け惜しみをこめて、ですが。