ぼくが、嫉妬するもの。

 

 

 

自分にはこれしかできないから、と言う人に対して、イラっとする。

 

 

 

だから他のことはできる自信はないけどやるだけやってみましょう、とか、その代わりに得意なことについては任せておいてくれ、とか、そういう言い方はできないのだろうか、と思ってしまう。

 

その人が、自分はこれしかできないから、と言ってしまうと、こちらはやったことのない面倒な雑務や未知の仕事を引き受けざるを得なくなる。

 

こっちだって、その人と同じぐらい、他のことは苦手なのに、そうやって、ほんのちょっとだけ器用だという理由で、本当に得意なことや好きなことから離れていく。

 

それで、苦手なのにと我慢して懸命に耕してきた畑に果実が実り始め、住みやすい土地ができてくると、また彼らはやってきて、のんびりとお茶を飲みながら、自分にはこれしかできないから、と言い続けている。

 

だけどもう、いい加減にそういう世界のとらえ方からは卒業したいなと思っていて、本当は彼らのことなんてどうでもいいのだ。

 

自分には自分なりの歩き方があり、自分なりの道が切り開かれていて、それは独創というにはほど遠いかもしれないが、しかしたしかに自分の足で進んできた道なのだ。

 

それがわかればじゅうぶんで、それ以上後ろを振り返らなくていい。

 

そんな時間があるなら、残された命で、ちょっとでも新しい光景が見えるように、一歩でも進んでいく。

 

 

 

ぼくが本当に嫉妬するのは、そんな歩き方をずっと続けている人だ。

働く人はみんな、ゲーム脳。

 

 

 

期初に目標を立てさせられて、なんとか目標に到達しようとあれこれ努力し、期末にどのくらい達成したかを評価される、そんなぼくらサラリーマンは、成果評価ゲームをずっと繰り返しているだけだ。

 

 

 

じゃあ社長になったら自由なのか、起業すればこのくだらないゲームから解放されるのか、といえばそんなわけではなく、親会社や株主や世間に対して目標を立てさせられ、それをひたすら追いかけるゲームへと移行するだけだ。

 

働いている人は、そのゲームをプレイしているあいだじゅう、それ以外のことには思考停止で、なんとなく他の心配をせずに生きていられる。

 

みんなが「ゲーム脳」になっている。

 

ただ、人によってその程度は違っていて、たかがゲームだからと割り切ってプレイする人もいれば、せっかくだからエンジョイしなくちゃと思う人もいれば、それが人生のすべてだと何もかもを投げ打ってコミットする人もいるだろう。

 

しかしそれはゲームでしかないのだ。

 

 ゲームとはプレイするものであり、プレイとは遊びであり、ぼくらは人生をどんな風に遊ぶのか、それを各自で勝手に考えて、勝手に遊べばいいのだ。
 
だから会社の言うことがすべてだとか、自分は見放されたとか、人間として評価されてないとか、この信頼を失ったら何もかも終わりだとか、思いつめる必要なんか何もない。

 


 
やりたいように生きればいいのだ。

 

 

以上は、シロクマ先生のブログを読んで思ったこと。

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

  

 

自分の時間の、手に入れ方。



時間が、ない。



それは事実なのだけれども、それじゃ時間がたっぷりあれば事態は良くなるのだろうか。
まあはじめは喜んで、増えた時間をうまく使おうとするのだろうけれど、そのうち、まあこれだけ時間があるのだから、ちょっとコーヒーでも飲もうとか、本でも読もうとか、やはり文化的な活動も必要だとか、いや休息も必要だとか、ぼーっとする時間を取り戻さないととか、あれこれ考えはじめ、時間がなかったときよりもダラダラと毎日をすごし、結果的にもっと悪い事態に陥っていくような気もする。

なぜそういうことが起こるのかといえば、ぼくらは本当の意味で自分の時間を使うことに慣れていないからだ。

朝、決まった時刻に起きるのは、会社の始業時刻や、保育園の登園可能な時刻や、今日の最初の打ち合わせが始まる時刻が決まっているからであって、自分が起きたい時刻を決めて、起きたわけではない。

それだけではない。

電車がやってくる時刻、それが目的地に到着するまでの時間、会社に着いてから仕事に取り組んでいる時間、昼食をとってもいい時間、残業にかけてもいい時間、帰宅してから寝るまでの残り時間、ぼくらの時間のほとんどは自分で決めた時間ではないのだ。

じゃあ、どうすればぼくらは自分の時間を手に入れることができるのだろう。

結論から言うなら、そんなことはできない。

ぼくらには純粋な、自分だけの時間、なんてものは存在しないのだ。
どれだけゆったりとリラックスして、自分の好きな飲み物を前にして、以前から読みたかった小説を手にして、お気に入りの音楽をかけていても、それはすぐにやってくるバカみたいに忙しい日々を前にした、一瞬の休息でしかない。
あるいは、他に何もやることがない人であっても、やがて来るであろう人生の終わりの時は少しずつ迫ってきているわけで、その不安から完全に自由に解き放たれた、自分だけの時間なんてものはないのである。

だったらどうすればいいのか。

とても簡単なことだ。

その時間が他者から与えられたものであろうと、得体の知れない存在から規定されたものであろうと、その中で自分が納得のいく時間をすごせたかどうか、それだけだ。

自分が納得のいくように、考えつくすことができたか。

納得のいくように、言いたいことをすべて言えたか。

納得のいくように、知りたいことを調べつくせたか。

納得のいくように、ぼーっとすることができたか。

そして、納得のいくように、気に入らないことについて事態を少しでもマシにしようとしたか。



だから、ぼくが時間がない、時間がない、と言っているときは、つまりは、まだ全く自分が納得のいくような時間を味わうことができていないと悩み、もがいているときなのである。