ウンチまみれの生活の先に、あるもの。



結婚したときに、ひとつ大きくほっとしたことがあって、それは、これでもう恋愛なんかしなくてよくなる、ということだった。



しかし人生には他にも大変なことがたくさん存在して、その多くは遠い未来だから、あるいは自分がそれにあてはまるかどうかは不確定だから、という理由で目に入らないだけだ。

だがまあ多くの人はその大変なことのひとつやふたつは体験せざるをえなくなるし、それは誰に、いつやってくるかなんてわからないのである。

子育てしながら働く、ということをひとつとっても、こんなにウンチとおしっこと汗にまみれた、全然おしゃれじゃない暮らしの連続を意味するとは思わなかったし、汚物がひょっとしてシャツについてないか気にする時間さえもったいないと感じるようなスピードで生きることを意味するとも思わなかった。

きっとこのあとも色んなトラブルや苦労が待ってるだろうし、そのうち介護とか自分の病気とか老後の貧困とか、考えたくもないようなことにも関わることになるのだろう。

もしぼくが若い頃のぼくに、お前の人生にはこの先ウンチとおしっこまみれの日々が待っていると伝えたら、若いぼくはどう思うだろうか。

きっと、ぼくがこれまでそうやってきたように、そんな先のことなんてよくわからないと聞き流すのだろう。

あるいは、そんな運命は自分の力で変えてみせると言うかもしれない。

それは正しくて、そんな運命なんか簡単に変えることができる。

結婚しなきゃいいだけだし、親を介護しなきゃいいだけだし、あるいは全部外注すればいいだけだ。

だけど、それはそれで仕事まみれの生活や酒まみれの生活や退屈まみれの生活が待っているだけである。

結局、ぼくらはどうあがいたって、人生のどこかの段階で何かにまみれ、もがけばもがくほど深く沈んでいくような場面に出くわすのだろう。

そしてそれはあまりに辛かったり情けなかったりみじめだったりするので、まるでそれが永遠に続くかのように感じるのだろう。

だけど忘れちゃいけないのは、どれだけ排泄物やため息や恨み節にまみれた暮らしをしていようとも、ぼくらはいま、ここに、いるのだ。

それは、いま、ここに、いない人や生き物や霊とかなんとかよくわからないものたちには絶対に手に入れられない事実である。

ぼくはこのことを大切に味わいたい。

たとえウンチとおしっこと汗の混じった耐えられないような味だったとしても、それが生きるということの醍醐味だからである。

自由な場所なんて、どこにもない。



今朝の地震は、大きな被害がなかったようで本当によかったけれど、空間的・位置的なものにしがみついている、あるいはとらわれている息苦しさのようなものを、より強く感じもした。



情報革命によって、人がその空間に存在している意味は少しずつ失われている。

鈴木謙介さんがいうところの「空間的現実の非特権化」は着実に進んでいる。

しかしそのせいで、かえって、空間的現実のどうしようもない重さ、すぐにはそれをなんともできない無力感、みたいなものを余計に感じる気もする。

原発の汚染水が増え続けていることや、関西にも大きな地震がやってくることや、あるいは災害が来なくてもこの国がものすごいスピードで老化していってることは、いますぐはどうにもできない確固たる空間的現実として、ぼくらにのしかかっている。

ぼくらはインターネットの力を借りて、空間的現実から離れ、虚数化された肉体になって色んな世界を見に行くことができる。

しかし、たくさんのことを知れば知るほど、わかるのは、自分が何もできないこと。

そして、もはや完全に自由な場所なんてないこと。

どんなに偉そうなことを言ったって、月収30万円の船に必死にしがみついているだけなのだ。

ぼくは別に、そんなに深く絶望しているわけではない。

生きるということは、色んな絶望と希望が入り混じった雲の中を進み続けることなのだ。

けれども、それだけじゃ、あまりにも生きるのは退屈で、息苦しくて、さえなさすぎる。

なんとなく、創造、という概念があらわれるのは、そういう、空気が薄くなってる場所からなのかもな、という気がする。

だけどそれはただの予感にすぎない。

しかし進んでみないことには、物語の先は読めないことも、たしかだ。

こうやって通信機器の画面を見ていたって始まらないことが、たくさんある。

月給30万円の、船に乗って。




日本人はだいたい月給30万円で働く、みたいな前提で作られてるシステムがあまりに多すぎる気がする。



家の値段も、塾の月謝も、車のローンも、はてなブログProの月額も、それを前提に決まっている。

それは非常に社会主義的というか、誰もが月給30万円前後の幅の中で暮らしましょう、その範囲でガマンしあって譲りあって暮らしましょう、みたいな話なのだろう。

資本主義的な、俺は実力で年収1億円稼ぎ出すぜイエーイ、ビンボーなのは自己責任だイエーイ、みたいな考え方は、一時期はそれなりに速いスピードで浸透しそうだったが、どうも一部にしか到達してないようにも見える。

いやむしろ一部の人間にしかその恩恵は得られないことを考えると、すでに浸透したあとなのかもしれない。

それでまあ、時代によって主役となるプレーヤーは変わる、みたいな話でいくと、戦後直後は闇市などで活躍した起業家の時代があり、高度成長の人口ボーナス時は一億総中流の時代があり、不況以降はリスク回避で経営者から投資家にバトンが渡り、いまやハイエナファンドが国家を食らう、みたいになりつつある。

もはや月給30万円で暮らす人生が成立してることが、奇跡でしかなくなっている。

いまのところ、日本で暮らすということは、どれだけがんばっても月給30万円という中で、いろんなことをたくさんガマンしながら暮らすということを意味する。

おしあいへしあいしながら顔ではニコニコしつつ、いつ沈むかわからない船にしがみつく、ということを意味する。

こんな状況が正しいのかそうでないのかは、どうでもいい。

ただ、情報革命以降、世界が圧倒的に狭くなっていく中で、ひどく息苦しく、頼りなく、ちっぽけな場所にいるように感じる。

その感覚が一年近く、自分から離れない。