犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるアイデアについて考えています

僕には、敵がいる。




1つの失敗が、致命的になる場面というものがある。


ブログで誤字脱字があっても指摘があれば直すということで対応すればいいが、政府の公式発表でスペルミスがあって誤読されたら、国際問題になってしまうかもしれない。

江戸時代の武家なら、そういう大事な場面でミスをすれば切腹である。

まあ別に僕が1つミスをしたからといって国際問題に発展することはないけれど、ここはミスると色々ヤバいなというレイヤーと、そうでもなさそうなレイヤーを日々識別しながら僕は生活している。

ただこれは、正確に言えば、識別している「つもり」なだけだ。

この場面なら多少のミスは問題ないだろうと考えてとった行動であっても、実はどこかで大きな問題を起こしていて、誰もそれに気づかないまま進んでいることもよくある。

このあたりの複雑な社会のコードを読み解くのはすごく難しいし、その能力が高ければ、それだけで十分に生きていくことができるだろう。

そして言ってしまえば、この「ミスにつながりかねないポイント」を回避するための選択をし続けるだけで、僕らに与えられた人生の時間なんて、一瞬で消費し尽くしてしまえる。



減点方式がこの国の多くの組織で採用されている理由は明確で、共同体の安定なり現状維持が一番大事だという暗黙の合意があるからだ。

しかし、これは明文化されてはいない。

ただ、フィクションとして存在している。

こんな狭い土地で1億人以上の人間が共存していくための理屈として、家族を持ち、国に借金をして家を買い、それを生涯に渡って返却していくことこそ普通の人間らしい生き方なのだという寓話を考えた先人は、素晴らしいクリエイティブ能力があったとしか言いようがない。

譲り合って共存しよう、なんて標語を掲げるよりもはるかにうまく機能してきたのだから。

しかし、そのフィクションも剥がれて錆びた地金が見えてきた今、僕らにはまた新たなファンタジーが必要なのか、それとも未だに騙されてるフリをし続けたほうがよいのか、まだよくわからない。

いずれにしても、今は社会における例の合意が崩れかけ、新たな方向性をみんなで模索してる最中なんだと思う。



では、そんな時に、僕はどんな人たちと向き合うべきなのだろう。

それはたぶん、遠いところでキラキラ輝いている憧れの人々ではない。

彼らは最新の社会コードをスラスラと読み解くだけでなく、新たなルールを作り出して、さらに暗号を複雑にしていくことのできる人間だ。

そんな人たちに付き合っていれば、こちらは難しいコードを誤読してはミスを犯し、悪しき前例として槍玉に上げられ、彼らが自分たちを有利にするために構築しているシステムをより堅牢にするのに貢献するだけだ。

そうではない。

僕が向き合うべきは、自分のすぐそばにいる人たちだ。

自分と同じように、世界の変化に戸惑い、現実の壁にぶつかり、答えを探してもがいている。

しかし、なんらかの方法で、光明が見えてこないかと希望を抱いている。

苦しい現実という敵を相手に、なんとか持ちこたえようとしている。

手を取るべきは、そんな人同士だと思う。



今は、世界中の近い思いを持った人間同士がめぐり合うことができる、とんでもない時代だ。

おまけに、リアルで長年付き合ってきた友人にも話したことのないような妄想や、恥ずかしい体験や、大胆な思考実験を共有することで、お互いの意識の奥底にまで潜っていくことだってできる。

そうやって向き合うことができた者同士のセッションがきっかけとなって、それぞれが新しい世界を作り出す。

多様で、やわらかくて、お互いにくっついたり離れたりが容易で、それでいて外部環境の変化に合わせて柔軟に変わりながら存続していく、小さくてタフな世界が、無数に生まれる。

この島にさまざまな人々がやってきて定住を始めてからずっと悲願であり続けた「共同体の安定と維持」は、そんな方法で達成できるのかもしれない。

そして、そのヒントは、以前からよくブログで言及してくるあのidだったり、最近急に絡んできてうっとうしい例のidだったりにあるのかもしれない。

少なくとも彼らは自分や自分の考えに関心を持ってくれているのだから。



さて、これはもちろん僕が語るフィクション。


あなたのフィクションも、聞いてみたいものだ。