好きな、大人。



シロクマ先生(id:p_shirokuma)の『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(熊代亨,2018,イースト・プレス)を拝読した。

ふた回りほど年上の上司や先輩を眺めていて気付くのですが、年上の身体は少しずつ衰えていて、人生を軌道修正するための時間やバイタリティもだんだん少なくなっているのがみてとれます。もし、彼らが彼ら自身で敷いた人生のレールから逸れたくなっても、小さな軌道修正をかけるぐらいがせいぜいでしょう。

それほどまでに変更の余地がなくなり、自分が積み重ねてきた歴史と向き合わなければならない身の上を生きているにも関わらず、すねることもなく、粛々と毎日を生きているー大成功した人、恵まれた人だけがそうしているのではなく、一敗地に塗れた人、恵まれない人のほとんどもそうしています。内心はともかく、少なくとも表向きとしては、人生の諸先輩がたの大半は自分の人生を受け止めながら、ちゃんと生き続けているのです。


そこで、ぼくの好きなおっさんの特徴を挙げてみる


・基本的にあまり姿を見かけない

・必要なときにだけ、いつのまにか、いる

・けっこうしゃべっているはずだが、なぜかあまりおしゃべりな印象がない

・一人でいることが平気

・めちゃめちゃ平気

・いくらでも時間をつぶすことができる

・いい感じの喫茶店を知っている

スターバックスにはあまり行かない

・自分でいちいち「もう老人だから」「おっさんだから」とか言わない

・そんなにグルメじゃない

・でもひそかにおいしいものを知っている

・判を押したように同じものばっかり食べる

・意外と甘いものも好き

・気配を消すぐらいの静かさで雑用をする

・なので雑用をしているのも気づかれにくい

・実用的な言葉を使う

・ゆっくりしゃべる

・道を良く知っている

・基本的にエリつきのシャツを着ている

・Tシャツは全然似合わない

・一年に一度ぐらいの頻度で流行りの言葉を言う

・実は人に教えるのがうまい

・子どもにエラそうにしない

・大声で自慢しない

・異様にへりくだったりしない

・人の手柄を横取りしたりしない

・しかしたまに悪だくみもする

・その悪だくみはかなり精度が高いのでほとんど失敗しない

・決していい人ではない

・そもそも誰にでもいい顔するような人ではない

・敵もけっこういる

・しかしそ知らぬ顔でいる

・体力はあまりない

・夜はすぐに眠くなる

・朝はいつのまにか起きてコーヒーを飲んでいる

・意外と本を読む

・意外とよく笑う

・意外と面白いことも言う

・しかし基本的にはただのおっさん

・基本的にはただのおっさん

・ただのおっさん


「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

君のことは、全然心配していない。


先日、昔お世話になった人が定年退職することになって、挨拶に行ったら、ところでお前はいったいどっちの道に行くんやと言われて答えに困った。



どっちの道、というのは表現者としての道と、それをサポートする道、という意味で言ってるのだが、実はもう自分はどちらの道にも関心がなくなっていて、だがそれを説明するのが面倒だったし、もっと言えばその人の頭の中にある道の姿と、ぼくの頭の中にあるそれが、十数年を経て、かなり違ったものになっているという確信があったのだ。

それで、ううんまあなんでもいいんです、というとすごくがっかりした顔をされたので、もっといい答え方があったのかもな、と少し後悔した。

その人はぼくのことを未だに心配してくれているのだろうし、善意で言ってくれているのはわかるが、もうぼくはぼくなりの細々とした道を歩き始めていて、彼らが、そして過去のぼくが、これまで大事にしてきたものとは決別しているということを伝えればよかったな、とも思った。

だが、もしそのことを伝えてしまうと、その人のこれまでの人生を否定する言い方になってしまうようにも思って、余計にごにょごにょとした返事になってしまったようにも思うが、それは傲慢というものかもしれない。


ところで、ぼくにはもう一人、とてもお世話になった人がいて、その人も少し前に退職したのだが、彼はぼくに、君のことは全然心配していない、と言ってくれた。

君は自分のやり方で自分の仕事を作れる人だから全然心配していない、どうせまた何か新しいことを見つけて取り組んでるのだろう、と言ってもらって、ぼくはひどく安心した。

その人は、いつもぼくの良いところを見つけてくれて、それを引き出すのがとても上手だった。

会社では一匹狼だが、業界では有名人、いわゆるスタークリエイターで、企画にとても厳しい。

彼に気に入られると賞を獲れるような大きなチャンスを得られるので、多くの若手がおべっかを使って取り入ろうとしていたが、良いアイデアでなければ絶対に採用しない人だった。

だから、彼がぼくの企画をよく採用してくれるのが心からうれしかった。

また、あまり言葉数の多い人ではないが、ぼくの企画の良いところとダメなところを的確に言ってくれて、次に取り組むべきことを上手にほのめかしてくれた。

ウマが合う、といえばそれだけなのかもしれないが、それ以上に、彼はそうやって他人のやる気や能力を伸ばすことがとてもうまい人なのだろう。

表現者の道をあきらめてから、ぼくがあれこれ悩んでいたこともおそらく気づいていて、その上で、君のことは全然心配していない、と言ってくれたのだろう。

思い起こせば、彼はいつもぼくが何かを望んでいるときに手を差し伸べてくれた。

それは、彼自身が、強い望みやこだわりを持って生きてきたからかもしれない。

だからこそ、ぼくに「スタークリエイターになる道をあきらめるな」なんてことは言わなかった。

自分の望みを押し付けるのではなく、ぼくの今の望みが叶うように、応援してくれたのだろう。

君は表現者の道を降りたとしても、何かを目指して迷いながらでも進んでいける人間だ、だから全然心配していない、そう鼓舞してくれたのだろう。


ぼくもいつか、誰かに言っていたいものだ。

君のことは、全然心配していない。

かっちょいいなあ。

やりたいことは、なぜ進まないのか。


理由はわからない。



やりたくない宿題とか無理矢理やらされてる仕事とかに限らず、自分のやりたいことだったはずのことも、なぜか順調に進まないことが多く、不思議に思う。

その時間が足りないのかと言われたら、この数年慢性的な時間不足なんだけれども、まったく時間がないわけではなく、わずかな空き時間ぐらいはある。

そのすき間にやればいいのに、実際は別にそこまでやりたくもないファイヤーエムブレムをしたり、家族が見ているテレビ番組をつい横で見てしまったり、職場での立ち話に費やしてしまったりする。

さあやるぞ、と始める前のちょっとした息抜きのつもりなんだが、むしろその息抜きばかりしている。

これは一体どういうことなんだろなと思うに、どうも「やりたいこと」というのがいつの間にか「やらなければいけないこと」に変質していて、やりたくないけどやらざるをえない義務と同一視している気がする。

おまけに義務のほうは自分だけではなく他人や締め切りや法律が見張っているからやらざるをえないが、「やりたいこと」にはそういうものがなかったりする。

なので恐ろしいことに自分の中での優先順位が一番最後になってしまう、これは本当に恐ろしい、恐ろしいことである。

じゃあいつ「やりたいこと」が義務へと変わっていってしまうのかと考えるに、実はまあまあはじめのあたり、そのことを「やりたいこと」だと自分で認識した時点のような気がする。

これは自分が「やりたいこと」だ、さあやろう、この瞬間に「やりたいこと」は単なる義務に成り下がっている。

本当に「やりたいこと」というのは、さあやろう、なんてわざわざ思わなくても勝手にはじめているものだ。

むしろ勝手にやってしまっていて、やらなければいけないことを後回しにしてしまっていて、ちょっと困ってたりする。

そういう野生の欲望をぼくはなんとか社会化しようとする。

で、なんとなく飼い慣らしやすそうな、言うことを聞かせやすそうなやつを捕まえて、それにこう命令する。

今日からお前はぼくの「やりたいこと」だ!さあその力を存分に発揮するがいい!

そんな身勝手な話なんてないのだ、それで、はいそうしますと、言うことを聞くようなやつはロクなやつではない。

だから動かない、ムチを打たれて無理やり働かされてる他の義務たちよりも動かない。

じゃあどうすればいいのか。

そんなことわかるわけがない。

わかるわけがないが、それでも何かを変えたいなら、野生の欲望の中でもとびきり元気で、もちろん言うことを聞かない、しかしとびきり魅力的なやつの首にしがみつき、叩き伏せようとしては逆に組み伏せられ、背中に飛び乗ろうとしては振り落とされ、何かを教えこもうとしては逆に知らなかったことを教えられ、そのプロセスの中で自分自身が変わっていくしかない。

プロセス、という言葉が出てきたら思ったのだが、本当の「やりたいこと」というのは何らかの結果なり成果を上げることではなく、それをやり続けていくこと自体がゴールだったりするので終わりはない。

終わりがないということは始まりもないのである。

さあやるぞ、とか、よし始めるぞ、とかいうのもないのである。

そういう途方のないものを相手にする場合、ぼくらにできることはあまりなくて、それは、決して近寄らないようにするか、あるいは肩の力を抜いて、ただ身をゆだねることぐらいだろう。

そういえば、ぼくにはさあブログを始めるぞ、なんて奮い立って書き始めた記憶なんてない。