成長は、孤独の中ではじまる。


成長、という言葉はあまり好きじゃない。



これは経済成長のために必要なんだとか心の成長にとって大切なんだとか、もっともらしい言い回しによってずっと振り回されてきたので、何か義務やら作業やらが発生しそうな状況で「成長」と聞くとなんだがゾゾゾと悪寒が走り、全力で逃げ出したくなる。

おまけにもうぼくはいい年なので、若い人ほど飛躍的な成長をとげることはできないし、バブルが崩壊したあとの不況の時代を長くすごしてきて、無限に成長を続けることがいいことだという考えに対しても、冷ややかに見る姿勢が身についてしまっている。


だけど一方で、人が何かを実現しようと情熱を燃やしている姿を見るのは、大好きだ。

いつもぼんやりしていてやる気のなかった人が、しばらく会わないうちに腕のたつプロフェッショナルになっていると、ドキドキしてしまう。

男子三日会わざれば刮目して見よ、という。

別に男子でも女子でもどっちでもいいのだけど、「今に見てろよ!」という反骨精神があふれている言葉だ(実際は「どうだ!なめんなよ!」というニュアンスなんだそうだけど)。

人間の情熱というのは、どこでどう火がつくかわからない。

大勢の人前で赤っ恥をかかされて「今に見てろよ!」となることもあるし、憧れの人に触発されて「こんな風になりたい!」と進むべき道が見つかることもあるし、胸の中にずっと秘めながら静かに温度を高めていく人もいるだろう。

いずれにせよ、そこには「三日会わざれば・・・」と、何か他人の目や評価から離れたところで自分の中の熱いものを育てて、また誰かの前に現れた時には大きく成長を遂げている人の姿がある。

人間の成長は、他人が見てないところで進んでいくものなのだ。

だから「さあ成長しましょう」「大きな成長を促進するためにこのような策を用意しました」みたいな言い方を聞くと、ばっかじゃねえの、とつい斜に構えてしまう。

やっている人は、他人に言われる前に、もうとっくにはじめているからだ。


人が人を好きになるプロセスというのも同じところがあって、「さあ恋愛しましょう」「さあ人を好きになりましょう」とか他人から言われたってそれこそ、ばっかじゃねえの、である。

そんなこと言われなくたって、ぼくらはいつもどこかで誰かを好きになってしまう。

同僚のちょっとした思いやりのある行動、電車でいつも何かの勉強をしている人のキラキラした目、久しぶりにあった昔の知人のやわらかい笑顔、世の中にはあらゆるところに見えない矢が飛び交っていてとんでもない状況になっているのだ。

だけどそれを「ほら、こんなところにキューピッドの矢が」、なんて他人から言われた瞬間に、それはへなへなと折れ曲がってしまい、鋭かった矢先もいつのまにか溶けてしまっている。

ドキドキする気持ちは、いつでも孤独の中でひっそりと生まれ、ひっそりと育っていく。

その中のいくつかは勘違いだったり、誰ともそれを共有できなくて自然に消滅していくものかもしれないけど、そのへんのほろ苦い気持ちは、自分自身でギュッと抱きしめてあげるのが大人のお作法だろう。

だからぼくらはお酒を飲んだり、本を読んだり、音楽を聴いたり、ブログを書くのである。


さて、こういうことについてあまりしゃべりすぎるのはそれこそ野暮というものなので、今日はこのあたりでやめておこう。