もちろん、もう通り過ぎてしまったことだから言えるのだけど、受験勉強は楽だったな、と思うことがある。
そこにはいつも答えがあった。
別に試験問題そのものに限ったことではなく、いつも自分が取り組むべき行動に答えがあった。
偏差値が少しでも高くなれば、より上位の学校に入学できる可能性があり、そうすればより高い収入や安定した暮らしを得られる可能性があり、そのための明確な手段として、「試験でより高い得点を取ること」があった。
もちろん、試験問題の中には単純に正解を導き出すことよりも、思考のプロセスを大切にするものもあって、その場合は「答えが1つとは限らない」あるいは「答えはまったく別のところにあるかもしれない」という可能性を含めて取り組む必要があったし、今考えればそういう部分が勉強の一番面白いところなんだと思う。
ただいずれにせよ、そんな問題であってもなんらかの解答が存在し、合否という明確な判定基準がその先に約束されていることだけは、信じて取り組むことができた。
それに比べて、大人になってからの応用問題の難しさといったら。
あまりにも不明瞭な変数が多すぎて、何が正解なのかさっぱりわからないことだらけだ。
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ツベルクリン氏が珍しく「自省log」らしい、こんなことを書いていた。
人間は千差万別だ。常に困難を求めて戦い、命を削りながら生き抜く人がいる。その一方で私のように怠惰に身を任せてのうのうと生きている人間もいるのである。私より先を生きている人たちは自分の人生に対し、そして生きる意味について今一体どんな景色を見ているのだろう。「そんなことがふと気になった」という、そんなただの日記。
人は何のために生きているのか。 - 自省log
僕にはこんな難しい問いに答えることはできないが、僕が今思うのは、他者が作り出した「意味」とは、単なる言葉にすぎないということだ。
ただし、その言葉や取り決めについて多くの人が合意しているから、そこに正解が存在しているように見えるだけだ。
高学歴の人間はそれなりにポテンシャルを持っているということにしましょう、あるいは努力をすれば何かが報われることにしましょう、という合意を引き出す手段として。
僕らが人生の意味を問う時、それは自分自身だけでなく、社会に対して質問しているのかもしれない。
今、この社会は、人間の生きる意味をどのように設定していますか、何が正解だという合意をしていますか、と。
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僕はこの「生きる意味を知ろうとする」作業にはそれこそあまり「意味」はないと思う。
それでもあえて僕らに生きる意味があるとしたら、それは新しい意味を作り出すことだ。
ツベルクリン氏と僕がブログを通して知り合ったことの意味だって、それ自体にはたいした理由はなく、こうやって新たなエントリを書くきっかけとなって、それが小さな世界であっても外へと発信されることに意味がある。
それがまたどこかの誰かに届くことがあって、反感を買ったりイラつきの原因になったりしても、その人に何らかの変化を及ぼしたという「意味」を持つようになる。
僕ら一人一人は微弱な存在かもしれないけど、何らかの意味を発信することはできるし、それを組み合わせて今よりももっと楽しい人生の遊び方を思いつくこともできるだろう。
たぶん、僕らが人生の意味に疑問を持ったり、何もかもが空しいと思ったりする時、それは新しい意味を作り出すチャンスだと思う。
これまでの思い込みや価値観からほんのちょっとだけ抜け出して、見たことのない景色を見に行く良い機会なんだと思う。
そして、そこで見上げた空の光景を、別の空の下で同じように悩んだりもがいたりしている人と分かち合う作業の中にも、新しい「意味」は生まれていくのだと思う。
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じゃあ、一体どうやって意味を作り出すのか、ということについての「答え」はすごく明瞭で、それは行動することだ。
例えば、ミィア猫さんのこれなんて、素敵な意味作りだと思う。
私はコンビニでも飲食店でも「いいな」と思う出来事に遭遇した後、お客様センターへ良かった点を伝えています。なぜ、それをするかと言えば、頑張っている人が報われてほしいから。誰かに指示されることなく、サービス精神を働かせて仕事をしている人は正当な評価を受けてほしい。
リアルで「いいね!」してますか? - 夜の庭から
自分が良いと思ったことを、たとえその方法についての答えを誰も教えてくれなかったとしても、ちゃんと伝えようとする。
誰も意味づけを明確にしていないような行為を、小さくとも、自分で実践する。
意味作りなんて、実際の手段はすごく簡単なことだ。
しかし、それを意味のあることなんだと、自分を納得させて、行動に結びつけるところに困難があるだけなのだ。
別に僕は小さなことをコツコツ重ねてなにがし、という話をしたいわけではない。
ただ、もっと「意味」から自由になりませんか、もっと肩の力を抜いて、なんだかややこしそうな文脈だらけの世界から時には抜け出して、自由に羽ばたいてみませんか、とお誘いしているのである。