犬だって言いたいことがあるのだ。

ものごとをひとつ先に進めるアイデアについて考えています

第三の場所は、どこにある。








それなりにインターネットにも詳しい50代の方とfacebookの話になり、僕はあれは連絡網以外の用途にはほとんど使っていないですねと言ったところ、ならば君は一体どこが活動の場所なのだと聞かれた。


僕はちょっと考えてから、うーん、ブログですかねえと答えて、それからもうちょっと考えて、ああでもどんなブログかは教えませんけどね、と言ったら少しムッとした表情をされたけど、その程度のことで怒るような方ではないのでそのままにしておいた。

実際、僕はインターネット的に、あるいはソーシャルネットワーク的にはとても遅れてやってきた人間なので、何か得意なジャンルを持っているわけではないし、自分の考えを発信する手段はブログとそれに連動させているtwitterくらいで、facebookでは基本だんまりを決め込んでいる。

facebookに何も書かない理由は色々とあるが、僕の今の仕事は世の中の色んな利害関係と複雑に絡み合っているため、諸々のリスクをたっぷりと抱え込んだ上で、実名で世界中に向かって何かを発信したいようなことは今のところない、そのうちできるかもしれないけれど。


とにかくインターネット的には、今の僕にはブログくらいしか居場所がない、ということである。



はてなブログを使い始めて1年と少し。

ここはとても居心地が良いし、同じようにブログを書いている人たちとすれちがいざまに一瞥を投げ合うだけの微妙な交流も、普段の仕事ではややベタっとした付き合いが多いからこそ、逆に気が楽だ。

また、それでももっと深く交流したいとお互いが望めば直接会って話すこともできるし、その先の何らかの活動も可能である。

だから僕はブログをもって、生活の場でも仕事の場でもない第三の場所、いわゆるサードプレイスと考えている。

サードプレイスという概念自体はかなり前に提案されているのだけど、しらべーる氏(id:shiraber)と色々と話している中で、これは今だからこそ関心が持てる考え方だなあと思うようになってきた。

最近は、サードプレイスに関してこんなエントリもある。

ゲマインシャフト的な世界観においては、なんらかの能力による「承認」はあまり必要ありません。あくまで友だちとして一緒にいて楽しいとか、血縁関係があるとかです。それは能力主義社会においては批判されることですが、既にゲゼルシャフト的な世界観が浸透した「会社」などのコミュニティに属している場合において、ゲマインシャフト的なサードプレイスを求めようという欲求がでてくるものと考えており、実際に私もその方向性のが強いのです。

承認欲求と包摂欲求についての一見解。または「あ、承認とかいらないんで、とりあえずお金下さい」 - 情報学の情緒的な私試論β

とにかく昔の人は、「利益共同体」か「地域共同体」しかなかったかもしれないけれど、今はそれにこだわらず「サードプレイス」を自分で作ったり参加していけばいいんじゃないか?という話が時々耳に入ってきます。

「利益共同体」の中にいて、利益を無視してでも自分の幸せを、まず自分の承認をと言っても、なかなかうまく行かない。「地域共同体」においても、共同体や、そのルールが優先されることが多い。 こういった場所で「あ、やりがいとかいらなんで残業代ください」といいきってしまうのはどうなんかな、、と思ってたりする。そういう人がいてもいいとは思うけど自分には合わない。それよりかは、「サードプレイス」的な考え方のほうが自分にはしっくり来る感じです。

承認欲求に関する話を「疎外」という言葉でとらえなおしてみる - お前のことが好きやったんや

つまり、原義的な意味でいうとサードブロガーってのは、ブログを自身の生活におけるサードプレイスと位置づけて運用しているブロガーですみたいな話になりそうです。とりあえず脳を通すまでもなく脊髄で思いつく反論としては「いや、ブログってそもそもそういうもんだろ」とかがありましてそれは全くもってその通りなんですが単に「はぁそうですねすいません」と言うのも癪なので屁をこきながら頷くほかありませんが、なんだかそういうことらしいです。

もしかすると俺はサードブロガーだったのかもしれない - ←ズイショ→


では、具体的に、僕らの「第三の場所」とは一体何なのだろう。



僕がサードプレイスに一番に求めるのは、再生だ。


とかく現実というものは残酷にできていて、衣食住はもちろんのことお金や仕事など、生存に関わる(とされている)ことに対して誰もが必死にしがみつき、その競争に適合しないとみなされたものは過度にダメージを受ける。

傷ついた人間に余力が残っている場合は何らかの方法でそれを回復させ、また現実へと立ち向かうことができるだろうが、そんな自己修復機能を持った人などほとんどいないし、困ったことに、回復させるべきものがそもそも何なのかがわからないくらい徹底的にやられてしまうこともあるのが現実である。

僕は若い頃、傷のなめ合い、という言葉が大嫌いで、そういうことをするヤツは本当に根性のないどうしようもないヤツで、傷を負ったならぐずぐずせずにさっさと退場してしまえとすら思っていた。

しかし人生というのは陰と陽の繰り返しであり、時に回復不能な状態まで追い込まれることもあると身をもって知ると、少し考え方も変わってくる。

別に、傷をなめ合うことが重要だとは今でも思わないけれど、一時的に危機的状況から退避できる安全地帯みたいなものは必要だと感じる。


また、人間、毎日同じ環境に身を置いていると自然とそこにある考え方や通念こそが全てであると思いやすい。

一度そう思い込んでしまうと、その文脈における価値基準しか見えなくなってくるので、ゲーム運びが順調な時は良いが、一度大きくドロップしてしまった時の挽回方法が見つからず、極端にストレスを受けたり、絶望したりしがちだ。

でも、サードプレイスを通して、普段は接することのない人々と交流をすることで、自分はずいぶん偏った価値体系の中で生きていたと気づくことができたり、あるいは自分以上にガチガチにコンテキストにとらわれてしまっている人の存在を知ったりして、視野が広がることがあると思う。

少し肩の力を抜いて、ゆとりをもって周りを見渡すことで、もっと良い取り組み方や、もっと楽しい選択肢があることに気づければいいなあと思う。


僕がサードプレイスに求める再生とは、傷だらけのまま凝り固まって身動きできなくなってしまった自分を解きほぐしてくれる、まずはそういう作用のことだ。



もちろん、再生のプロセスは、解きほぐすことだけにあるわけではない。

また、せっかく勇気を出して自分の本音をブログに書いたのに炎上してしまう、といった場合、再生どころかさらにダメージを負ってしまうじゃないか、という反論もあると思う。

だからサードプレイスはブログだけにあるわけではないし、人によればそれがスナックでカラオケを歌うことなのかもしれないし、野山でキャンプをすることなのかもしれないし、何かのコンテンツにハマることなのかもしれない。


ただ、あえて今、僕がブログを第三の場所として考えているのは、そういうサードプレイスでは得られない楽しみや発見があるからだと思う。

しかしそこには色々と課題があるのも事実。

このあたりはしばらく考えていきたいなあと思っている。


ああ、大事なことを忘れていた。

こんな感じで、次はアレについて考えていこう、と色んなテーマを追い続けられることも、第三の場所にはとても重要な条件じゃないかなとも思っている。