思春期の、こと。

自分の思春期の頃のことは、あまり思い出したくない。

なんというか、ぼくは割とのんびりした小学生時代をすごしてきたように思う。
だけど、中学生の頃はひどかった。
今でも思い出すだけで暗い気持ちになる。
みんなとにかく荒れていて、教師たちはそれを制することができなかった。
誰かターゲットを決めて集団で殴る遊びが流行していたし、昼休みに弁当を食べていたら不良が突然現れて、うまそうなおかずの部分だけを手づかみで取っていくのも通例だった。
そんな中で、ぼくは大人のことを信じなくなっていた。
大人のことが信じられないから、自分なりの正義を作るしかない。
だから、ぼくの頭の中はいつも独りよがりの思いこみでいっぱいで、だけどそれはすぐに同級生からつぶされたり、上級生から殴られたりして、怒りと嫉妬と妄想でぐちゃぐちゃにまみれていた。

たしかに思春期というのは、子どもから大人へと変わりはじめるタイミングで、だからこそ周りの大人たちの行動に疑問を持ったり、世の中のあり方に疑いの目を向けるようになるものだ。
ただ、僕の場合は、いきなり大人がまったく頼りにならない環境に放り投げられたせいで、余計におかしくなってしまったのかもしれない。
今考えると、両親はそんなぼくを粘り強く見守ってくれたと思う。
そして、ぼくがこの環境を脱出したい、そのために受験勉強をがんばりたいと思ったときに、すぐに救いの手を差し伸べてくれた。
また、塾の先生たちも、ぼくにとっては信じられる大人だった。
彼らは自分たちの仕事が「仕事にすぎないこと」を隠さなかった。
だから、今日の授業が終わったらどこへ行くとか、大学ではこんな勉強をしているとか、「塾の先生」とは違う自分があることを教えてくれた。

今でも覚えているのが、社会の先生が授業中の雑談タイムに話してくれた、講師控室で一緒になった理科の先生がおにぎりを食べながら缶コーヒーを飲んでいてびっくりした、という話だ。
ぎょっとした社会の先生は、おにぎりとコーヒーは合わないだろう…と指摘したところ、理科の先生は、いやけっこうおいしいですよ、と答えたそうだ。
本当にどうでもいい話だ。
だけど、いつもすました顔で授業をしている理科の先生が、いやけっこうおいしいですよ、とやっぱりすました顔で返している様子がすぐに浮かんできて、今でもそれを思い出すとニヤニヤしてしまう。
たぶん、ぼくはそういう大人に憧れていた。
仕事の休憩中に、おにぎりとコーヒーが合うか合わないかを言い争う大人。
そのことをちょっと楽しそうに話してみせる大人。
この仕事が終わったら、バイクに乗ってどこかへ出かける予定の大人。
だけど自分の仕事にそれなりにプライドを持っている大人。

だから思春期の人間にはロールモデルとなるような大人と出会うことが大切だ、なんて話をしようとは思わない。
人の数だけ思春期も違うだろうし、もっといい時間のすごし方もたくさんあるだろう。
いい友人と出会えていたらまた違ったかもしれないし、いい出会いというのは人との出会いだけとは限らないだろう。
ただ、いま自分がいる世界だけがすべてではない、と思える経験は、思春期のただ中にいる人間には役立つようには思う。
目の前で起きていることだけがすべてではない。
会ったことのある人間だけがすべてではない。
触れているものだけがすべてではない。
世界はもっと広く、知らないことがたくさんある。
そこへ一歩踏み出してみる勇気よりも貴重なものを、ぼくはあまり知らない。

思春期の頃のことを思い出すのは、あまり楽しいことではない。
だけど、いくつになっても、あの頃のことを忘れず、新しい一歩を進め続けたいとは思う。