人生という、弁当。

narushima1977さんの「50代の人が何を考えているか知りたい」という問いに、もうすぐ50歳を迎えるfujiponさんが答えていて、とても面白かった。
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こういう話になるとふと思うのは、定年退職をしていった先輩たちのことだ。
もちろん、定年を迎えてもさっさと次の仕事を作ったり、大学の先生などをやって、ますます精力的に活動する人もたくさんいる。
だが、現役時はトップクリエイターだった人が引退したあとはとても静かな暮らしをしていたり、家にこもってゲームばかりして妻に叱られていたりするのを見ていると、ああ仕事なんてそんなものなんだな、と思う。
そのポジションから一歩卒業してしまえば、本当にただの人なのだ。

どんなにすごい人でも年を取るし、いつかは引退する。
あるいは引退しないまま寿命を迎える人もいるが、それもある種の引退だ。
そう考えると、「未来のために今努力すること」は本当に良いことなのだろうか、と思う。
もちろん、若くて元気でたっぷり時間のある人たちはそれでいい。
でも年を取って、体は十分には動かないし、集中力も弱ってきたし、人生の残り時間も減ってくると、未来のために今という時間を犠牲にするという生き方はちょっと違うよなあ、と感じる。

少し前までは「自分に残された時間は少ない」と思うことは「だからこの一日を後悔しないように頑張って生きよう」という考えにつながっていた。
その考えには今でも共感する部分はあるけれど、最近は、残された時間が少ないからこそ、その時間をじっくり味わいたい、というほうが近い気がする。
頑張るとか努力するとかではなく、頑張れなかった時間も、ぼんやりしていた時間も、どれも自分であって、それらを全部ちゃんと味わいたい、という感じ。

どれだけ未来のために必死に努力しても絶対に報われないこと、というのはある。
また、色んな事情でこれまでのように努力をし続けることが困難になることもある。
今はトップクリエイターとして光り輝いている人にも、いつか日の沈む時はやってくる。
もっと言えば、年齢など関係なく、誰にもそういう時は突然訪れる。

人生には、そういう事態も十分に内容物として含まれていて、その配分が人によって違うだけだ。
ぼくらはそれぞれに違う幕の内弁当を渡されている。
やたら米ばかりが多いものもあれば、肉の量が多くてラッキーということもあるだろうし、ずいぶん全体のボリュームが少ないな、という場合もあるだろう。
だけどそれを味わうのは持ち主なのであって、味わい方も持ち主次第なのだろう。

どうも、ぼくはそういうことを昔から知っていたようにも思うし、本当の意味ではまったく理解していなかったかもしれない。
今でも、ほとんど何もわからない。
わからないけれども、ぼくはぼくに与えられた人生の時間を最後までしっかりと味わいたいと思う。
たとえそれが周りから見てハズレだったとしても、そこに喜びを見出すのはぼくだけの仕事なのだ。
そういう風に考えらえるようになっただけでも、ぼくは年を取ってよかったと思うし、これから運よくまだ年を取り続けられるとしたら、何か他のことにも気づけるような気がする。

まだ50代になっていないぼくだが、今は「未来の何かをモチベーションとして手段としての現在を消費する」という生き方を終わらせて、人生自体をじっくりと味わう生き方へと移行している途中だと思う。
だから、きっと50代になったときには、その方法や秘訣について、もっと面白いことが書けるんじゃないかなあと楽しみにしている。