車輪を、何度でも発明する。



車輪の再発明、という言葉があるそうで、もうすでに先行して利用できる知恵があるにも関わらず、多大なコストをかけてそれと同じもの(や場合によってはもっとひどいもの)を開発することだそうだ。



要するに、皮肉だ。

それで、最近思うのは、世の中には車輪以外にも世の中に役立つものがたくさんあるので、だいたいのものは自分で発明する必要はない。
なので、その発明の数をたくさん知っていて、それにすぐにアクセスできて、うまく利用できること、それが重要である世の中になって久しい。

ちょっといいことを思いついて、何かを作ろうとすると、すぐに横から「それは再発明だよ」とささやいてくる人が出てくる(それは他人ではなく、自分自身だったりもする)。
そうかなと思ってちょっと調べてみると、なるほどほとんどのことは、すでにすごい人たちによって発明されており、おまけに自分が思いもよらなかったところまで考え抜かれていたりする。
それですっかり心が折れて、ああもういいやとなってしまう。

ちょっと年を食ってからコピーライターの仕事を始めた頃、アイデアの刺激にならないかなと思って過去のコピー年鑑を見ていたら、後輩(だがコピーライターとしては先輩)に、いぬじんさんも年鑑を見ることあるんですねと言われたので、君は見ないのと聞いたら、見ますよ、過去のアイデアと自分のアイデアがかぶらないようにするためにね、と彼は答えた。

当時のぼくは、すげえな、そうそうたる作品が並ぶ年鑑と自分の仕事とを並列で見ているなんて、とは思ったけど、彼の言っていることに共感はできなかった。
おそらく、あの頃、ぼくはコピーを見るだけで楽しかったのである。
ああこんな切り口があったのかとか、こんなビジュアルをよく思いついたなとか、これは絶対に自分には真似できないけど好きだなあとか、そういう目で見ていた。
それから数年経って、いくつか賞をもらったりしはじめると、たしかに年鑑もそんな余裕を持って眺めていられなくなったけど、それでもやっぱり「過去のアイデアとかぶらないように気をつけなければ」とは思わなかった。

なぜなら、そこに同じアイデアなんて、ひとつもないように思えたから。

たしかに似ているコピーや似ている企画はあるけれども、それを考えた人たちは、そこでそれぞれきっと違うことを感じ、違う発明をしている、と感じた。
クリエイターは一人ひとり必死に面白いものを考えようと毎日努力をしている。
結果的に他人からは似たようなアイデアに見えたとしても、そこで本人が発見したものは、世界に一つしかないものだと、そう思えた。
そして、その発見に、強く嫉妬していた。

ぼくがそう思いたかっただけの話かもしれないけれども。

ところが年を取って、いつのまにか、ぼくもすでに発明された車輪ばかりを探していて、自分なりの発見をすることがすっかり減ったし、気が付くと他人が何かを再発明しようとしているのを見て「それは再発明だよ」などとささやいてしまっていたりする。

しかしもうそういうのは、おしまいにしたい。

やっぱり、一人ひとりが何かについて真剣に考えているとき、そこで起きているできごとは、その人の中でしか起こらない特別な事件であり、冒険なのだ。
たしかに他の人から見れば同じ失敗をして、同じ発見をして、無駄な時間をすごしているように見えるかもしれないが、誰もその人自身になれない以上、やっぱり完全に追体験することはできない、かけがえのない時間なのだ。

再発見でもいい。
再々発見でも、再々々発見でも、再々々々発見でもいい。
きっと、そこでぼくらが見つけたものは、それぞれ違っている。
その違いに気づき、認め合い、そこで起こっている何かの気配に気づく。
そしてそいつの尻尾を捕まえるためにみんなで準備をし、タイミングを見極め、飛びつく。

そんなパワーが生まれるのは、「これは自分たちで見つけたんだ!」という強烈な体験があるからだ。

いつだって、それが正しいかどうかはよくわからなくても、いてもたってもいられなくて行動を起こし、悩みながらでも歩き続け、ほんの少しであっても志を同じくする人と力を合わせ、いつか実りの季節がやってくることを信じて這いつくばって進んでいく、その力の源となるのは、自分の胸のときめきだ。

だから車輪を、何度でも発明していこう。



毎日をドキドキしながら生きていこう。