必要な言葉が、必要なときに届くように。





人類が誕生して以来、今ほど、大量の言葉があふれかえっている時代は他にないだろう。



おまけに誰かが放った言葉は、また誰かが複製して、それがまた他の誰かに伝わって、一瞬のうちに膨れ上がる。

ぼくらは増え続ける言葉の洪水の中をうまく泳ぐどころか、流されてしまわないように何かに必死にしがみついておかないと、すぐに遠くへと飛ばされてしまって、さっきまでいったい自分は誰の言葉を聞こうと思っていたのか、あるいは誰に言葉を伝えようとしていたのか、すっかり記憶を失った状態で、見知らぬ砂浜に打ち上げられるのだ。

こんな騒々しい大海の中では、自分にとって本当に大切な言葉はどれなのか、見つけられるほうがどうかしている。

ぼくがこうやって書いている文章も、関係のない人にとっては邪魔なゴミでしかないし、ぼくだって大量のゴミの中を漁りながら、どこかに自分に宛てたメッセージが埋もれてやしないかと無駄な探し物を続けている。

潮の流れと同じように、ぼくらの人生も常に変わり続けていく。

いま、ぼくが必要としている言葉も、次の瞬間にはまったく要らないものになってしまっている。

せっかくのぼく宛ての何かが手に入ったとしても、もうとっくに知っていることや、あるいはもう二度と手に入らないものについての詳しい説明だったりすることもあるだろう。

そうやっているうちに、ぼくはだんだん疲れてきて、どの言葉にたいしてもあまり注意を払わなくなっていく。

いいよ、メールで送っておいてよ。

へえ、どうせググればわかるから今聞かなくても大丈夫だよ。

あー、もうだるいから長い文章読むのはやめておこうかな。


しかし、多くの人がすでに知っているように、本当に自分にとって大切な言葉というものは、ピンと耳をそばだてて、深く呼吸をして心を落ち着かせ、じっと待ち構えておかなければ、捕まえられないものだ。

いや、それでもちゃんと見つけられるかはあやしい。

それなのに、これだけの言葉の吹き荒れる中で、いったいぼくらはどうすればいいのだろう。


ぼくには、さっぱりわからない。

わからないなりに考えてみるに、それはやっぱり、自分から一番近いところにある声を聞くことなのじゃないかと思う。

自分の胸に手を当てて、いま自分はどんなことを感じているのか、幸せなのか、不幸せなのか、困っていることはないのか、やりたいことはないのか、じっと我慢しているけどだいぶ前から限界を迎えていることはないのか、あるいはちょっと飛ばしすぎていて速度を落としたいことはないのか、聞いてみる。

そうすれば、少しは自分が欲しいものが何なのか、気づくヒントがあるような気もする。

ないような気もする。


これも、わからないなりに思うのだけれど、本当に自分にとって必要な言葉なんて、そんなに簡単にわかるわけがない。

毎日、大量の言葉に触れるから、何かその中に大切なものが隠れているように感じるだけだ。

よくバーゲンで掘り出しもの市とかやってるけど、その中で本当に掘り出し物を見つけられたことがどれくらいあるだろうか。

どれもピンとこない、何か違うような気がする、だけどせっかくこんな良い機会があるから何か買って帰らなきゃもったいない、ただそう思って無理やり何かを選んでいるだけじゃないだろうか。

もちろん、そういう風にして出会えるものだってある。

だけど、たいていの場合は、本当に欲しいものが何なのか、自分自身だって気づいていないのだから、見つけられっこない。


なんだ、簡単なことじゃないか、とぼくは思う。

自分にとって本当に必要な言葉が、本当に必要なときに届くようにするにはどうすればいいか。


まずは、自分から問いかけてみればいいのだ。

自分自身の胸に。

自分のすぐそばの人々に。

そして、ちょっと遠くに人にも。


いま、どんな状態ですか。

ここは、どんなところですか。

そちらは、どこに向かっているのですか。


そうやっていれば少しずつ、自分のいまの場所と、これからどこに行こうとしているかが見えてくるだろう。

行き先を見てみれば、まだ真っ暗で、果たしてそこが進むべき方向かどうかはわからないけれども、しかし何かが聞こえてくるのじゃないだろうか。

ピンと耳をそばだてて、深く呼吸をして心を落ち着かせ、じっと待ち構えていればいいのじゃないだろうか。



そうすれば、少しは欲しい言葉が手に入る可能性があるような気がする。



ないような気もする。