失敗したことを、話す。




先日、同じ部署の人たちに、この一年で学んだことについて話した。



ぼくはこういうときにグッドニュースばかり話すクセがあるのだが、今回はバッドニュースについても話してみたら、意外と笑ってもらえたし、それなりに話も中身のあるものになった。

悪い話についても触れてみようと思ったきっかけは、別のところで他の人の発表を聞いたとき、その人が正直に自分の失敗について報告してくれて、その失敗の内容がすばらしい気づきを与えてくれたからだ。

それで、これから自分の経験を話すときは、うまくいったことよりも、うまくいかなかったことを話すようにしたいな、と思ったのだ。


年をとってくると色々なものを守りたくなってくる。

イメージとか、評判とか、メンツとか、そういうやつだ(こうやって文字にしてみるとほんとにケチな、どうでもいいものだな)。

まあこんなケチなものを必死に守ろうとしていい報告しかしないよりも、少しでも役に立つ情報を伝えるほうがずっと大事だよなと、当たり前のことを思う。


これは自分が人の話を聞くときも同じなような気がして、成功した話ばっかり聞いていても仕方がない。

失敗談にはたくさんの教訓や気づきがあるのはもちろん、何よりも人間の味わいがある。

ぼくの好きな話は、いいところまで行ったのだけど自分の信念を曲げられなくて機会を逃した、とか、逆に自分をひたすら殺して会社の役に立つように尽くしたけど報いてもらえなかった、とかいうやつで、この手の話には自分にはまだ到達できていない深い苦味があり、とても滋養がある。


人は成功し続けることはできないし、努力にみあう結果を得られ続けるわけでもない。

勝った人の反対側には負けた人がいる。

仮に人生が勝った負けたのあるゲームなのだとしたら、その勝者は無敵の勝ち方を築き上げてこれをPDCAで研ぎ澄まし続ける人間なのだろうか。

その答えはもちろんイエスだろう。

では、一体誰がこのゲームを一番楽しめたのか。

それはゲームセット時にしかわからないことだけれど、ただなんとなく、勝ち続けてきた人だけが人生を楽しみ続けてきたのかというと、さてどうなんだろう。

あの苦くて、しかしうまみのある深い味わいは、簡単なことでは手に入らないようにも思う。



まあ、いずれにしたって、このくだらない世の中を生きる、というゲームを本気で遊び尽くすことが大前提なのだろうけれども。