妻とあるミュージシャンの話をしていて、あの人が他の人よりもいい歌詞を書くのは、個人的に色々と辛い経験をしたりしていて、言葉にしなくちゃ自身が救われないからなんじゃないか、そういう祈りみたいなものが聴く人の心を動かすんじゃないか、みたいなとんでもなく下世話で勝手な憶測を話したのだが、珍しく妻は納得していた。
それで思ったのだが、やっぱり書くという行為と祈るという行為は似ている気がしていて、それはどちらもこの現実ではまだ起こっていない、自分が望む世界があって、しかし自分の力だけではどうにもならなくて、そのことを認めざるを得なくて、だけどあきらめたくもなくて、そんな気持ちの中で生まれる行為ではないかと思うからだ。
未来を作るため、なんて言い切れるほど偉そうな行為じゃないと思うのだ、書くということは。
よく考えるとコピーライター時代にほめてもらった仕事のほとんどは、弱いものが主役になっているものばかりだった。
小さな子供、犬、貧乏なサラリーマン、臆病な殿様、空気を読み間違えている外国人。
ぼくは書きながら、人の満たされない心や恥ずかしい気持ちから目をそらさないことが大切だと教わってきた。
しかしなぜそれが大切なのかということまでちゃんと考えたことはなくて、せいぜいそうやって消費者のニーズをつかまえることが重要だからなんだろうというくらいにしか思っていなかった。
書くことでできることなんてほとんど何もない。
むしろ書くことで、気づきたくないことに気づいてしまうことがある。
自分は弱くて、卑怯で、孤独で、ちっぽけな存在だと。
それでも何かを書くということは、やっぱりあきらめたくないことがある、ということなのだろう。
ぼくは、弱い人間であり続けたい。
弱い人間の心でもって、弱い人間の心を見つめ、満たされないモヤモヤしたものから目をそらさずにいたい。
ひどく乱暴に言うならば、それが、ぼくが生きることの意味だと思うからだ。