日記を書く、日記を読む。


個人の日記には、何の価値もない。



そこにはこの国に経済的効果をもたらすためのヒントなんてどこにもないし、日々の暮らしを向上させるための知恵も見出せない。

少し前だが、ドナルド・キーンさんの話がテレビで紹介されていて、氏が日本人に興味を持ったきっかけのひとつは戦争中に死んだ日本兵たちの日記を読んだことだそうだ。

日記の中身は軍事的には何の価値もない情報ばかりで、戦地で正月を祝い豆を分け合ったことなどの日々の出来事が書かれていただけらしい。キーン氏は、敵軍の捕虜にされる前に集団自決するほど任務遂行に執着する日本人がなぜこのような、何でもない日々の記録を日記として残すのか不思議でならなかったらしい。

この日本人の日記文化のようなものはキーン氏の努力もあり日本文学として戦後注目されるようになるわけだが、しかしなぜ日本人がどうでもいいような内容の個人的な日記を書くのかはその番組では明らかにされていなかったように思う。

ではなぜ人は(日本人かどうかなどはどうでもいい)日記を書くのだろう。

ひょっとすると、過去の記録を残すという行為自体が何か大切なことなんじゃないかと思っているからかもしれない。

ぼくはとても苦手なんだけど、旅行先でやたら写真を撮りたがる人は多い。写真を撮ることが目的そのもののように見えるほど写真を撮り、おまけにいつも構図は同じ。まるで時というとらえようのないものを画像化することで触れられるようにし、記録として残す行為こそが旅行の最大の目的であるようだ。

個人の日記にも同じようなものを感じる。書いたものを誰かに読んでもらったり何かの目的のために活用したりしているような気配はあまりない。ただその日に起こった出来事を書き残す。

今でこそインターネットを通してその情報は共有されていくけれど、しかしやっぱり日記を書く人の関心はシェアして新たな知恵を生み出したり、あるいは承認欲求を満たしたりする点にはあまりないように見える。

ひょっとすると。

人が日記を書く時は、自分という寡黙な読み手を前提としているのかもしれない。

この読者はひどく気難しく、何を書いてもなかなか満足しない。おまけに書き手のことを知り尽くしているから、小手先のレトリックは通用しない。もちろんウソの内容はすぐに見破られる。

そんな中で有効なのは、淡々と事実について記録すること。記録の中で、自分は何を見たのか、何を聞いたのか、何を話したのか、そういった事実を書くことを通して、なぜ自分はその事柄に注目しているのか、そしてどこに向かおうとしているのかを自分自身に考えさせようとすることだ。

この作業には終わりはない。そこに答えはないからだ。

人は日々生活をしながら、ほんのわずかずつ考えを変化させ、感じ方を変えていく。自分の考え方や感じ方が変われば、導き出す答えはまた変化する。

日記を書くことはそんな今の自分自身の、過去との違いを記録する行為でもある。

だから個人の日記なんて、何の価値もない。

書いている本人以外にとっては。

そして、日記を書いている他人の視点を借りることで、変わり続ける心を見つめ、人間とは一体何なのかを知ろうとする者以外にとっては。