社会にいいことをする、方法。



日本では若い人のほうが、世の中の役に立ちたいとか、社会にとっていいことをするべきだと考える人が最近は多いという話を聞いた。



ぼくも、けっして若くはないけれど、この世に生まれてきたかぎりは自分以外の人々の役に立ちたいと思っている。

一方で、社会はそんな甘いものではない、自分たちの食い扶持すら稼げないで何が社会貢献だ、という考えがあることもよく理解しているつもりだ。

そもそも、ぼくのようないわゆる社会人の中堅層はひたすら働いて金を稼ぎ、税金なり年金をおさめることや、子供を産んで育てることが最大の社会貢献だという考え方もあり、これ以上いったい何を差し出せというのだ、というのもある。

しかし人間というものは自分のやっていることに意味や意義を見出したがる生き物である。

どれだけ忙しくても、自分の仕事も少しは社会貢献につながっているのだろうかとか、誰かの役に立っているのだろうかと気になるものだ。


もちろん、ぼくらの仕事というのはいつでもわかりやすく社会の役に立っているとはかぎらない。

一見、世の中の役に立っていそうな仕事でも、実際に当事者になってみると色々な事情が見えてきてがっかりしたり、でもこれはお金を稼ぐための手段だからとスッパリ割り切ってしまい、はじめの頃の情熱なんてすっかり失ってしまっていたりする。

人によっては、それでも何か世の中に貢献したいと考えて、仕事ではないところで活動を行っていて、これは素晴らしいなあと思うし、ぼくも時間とお金があったらそういう活動に参加したいとも思うことがある。


時間とお金があったら。


それが、ぼくが何か新しいことをしようとする時に頭に浮かぶ言葉であり、それは課題意識というよりも、何も無理をして余計なことをしなくてよいのだ、今でも自分は精一杯やっているのだから、という免罪符となってしまっている気がする。


たしかにぼくには時間とお金が足りない。

そしていくらでもやらなければいけない仕事はある。

だとすれば、仕事の中で、できることはないだろうか。

あるいは、わずかしかない生活の時間の中でも、できることはないだろうか。


実は、できることはあると思う。


ひとつは、選択だ。

たとえば少しでも世の中に役立っているものを仕入れる、とか、環境に負荷が低い手段を選ぶ、ということ。

また、自分が誰かに商品やサービスをすすめる時にも、ちょっとはマシなほうをすすめる。

あるいは考えに共感できる人との関係性を持つ。

仕事をしていれば、ほんのわずかではあってもそういう選択をする機会はある。


いやいや、そんなことを言ってもわが社は売上と利益がすべてなのだ、あるいはKPIとして設定した目標数字がすべてなのだ、そんな中で個人のバイアスをかけるなんてとんでもない、ということもあるだろう。

そしておそらくこのあたりからが、ぼくらそれぞれの個別課題になるのだろうけど、そこで無力感を感じる必要はないように思う。

かならず、自分と同じようなことを考えている人間はどこかにいるからだ。

それは会社の外かもしれないし、自分の業界にはいないかもしれないが、しかしどこかにかならずいる。

あるいは、人という存在は変わることができる。

本当に世の中に役に立ちたいという思いを持っているのであれば、そしてその考えが魅力的なものであるならば、周りの人の意識を変えることができるはずだ。

直接の仕事を通してではなくでも、自分の話しかた、話す内容、行動、意思決定、そういったものを通して周囲に良い影響をもたらしていくことはできる。

良い影響、なんていうのはひどく傲慢な考え方だと思うけれど、しかし自分が信じる道があるのだとしたら、それは他人には言う必要はないけれど、自分の中では「良い」ということだとちゃんと認識しておいてよいのではないだろうか。


さて、そんな感じで、ぼくらはどれだけ忙しくても、どれだけお金がなくても、それぞれができることがあるような気がする。

そこまでして社会貢献なんてしなくてもいい、とか、そんなものはもっとヒマでお金のある人にやってもらえばいい、とかいう考えもあると思うけれど、これはぼくにとっては「けったくそ」だけの問題である。


誰が悪いとか、社会が悪いとか、自分以外の何かのせいにして生きていても、なんだかスッキリしないから、というだけである。