「のせい」を、やめる。


春がやってくる。



ぼくの周囲にも、色々な出会いと別れがあって、ばたばたと忙しい中でもふと感傷的になったりする。

この時期によく聞くのが、会社事情での異動や転勤の話だ。

不本意な異動を言い渡された人が、ものすごく怒っている場面に出くわすことも多い。


今まで必死に頑張ってきたのになんで!

これほど会社に貢献してるのになぜ!


ぼくもサラリーマンとして、そんな理不尽さに憤りを感じながら生きてきた。

自分がこんな不遇なのは、会社が自分の能力を理解していないせいだ、そしてこんなつまらない時代に生まれたせいだ、と。

だけど、最近、気づいてしまった。

会社のせいにしているのは、会社に頼ろうとしているから。

時代のせいにしているのは、時代に乗ろうとしているから。

若いあいだはそれでいいのかもしれない。

何かに守られながら力をつけることは大切だ。

だけど、ぼくらは早めに、それらに全身を預ける生き方から卒業したほうがいい。

理由は簡単で、そっちのほうが楽しいからだ。


こんなエントリを読んだ。

僕の周りなんかだと30近くになってもバイトやりながらバンドやっている友達が結構多い。金は無いけれど、ツアー回ったり、レコード出したりとなんだかんだで頑張っている。貧乏なその状態をあざ笑うか、それとも羨むかはその人の価値観によるものだろう。価値観という物差しは人それぞれ異なる。僕はそれはそれでアリだと思うし、バンドやりたくてもできない状態の僕としては結構羨ましいというか、悔しいというか。

「貧乏だけど心は豊か」は普通にあり得るだろ - K Diary

好きなだけ買いたいものを買える状態が「心が豊か」という人もいるし、やりたいことをやれている状態が「心が豊か」という人もいる。結局のところ、その人が生きていく上で何を大切にしているか、どうありたいかによると思う。他人が「お前の心は豊かじゃない」とかどうこう言えるわけない。

「貧乏だけど心は豊か」は普通にあり得るだろ - K Diary

そうやって、他人の価値観ではなく、自分が何を大切にしているのかを見つけることができれば、多少の環境の変化には動じなくなると思う。

本当に貧乏だから心が豊かになれないというのであれば、その人が一番大切にしているものは「お金」なのだ。

であれば、持てる限りの知恵と勇気を振り絞ってそれを手に入れるべきだろう。

そうではなく、何か別のものが欲しいのであれば、それを手に入れようと歩きはじめればいい。

そうやって、与えられた環境に満足することなく一歩でも進もうとするほうが、誰か「のせい」にして生きるより、ずっと大変で、だけどずっと楽しい。


当然だけど、今でも急に、これからちゃんとやっていけるだろうかと不安になったりもするし、こんないい年になって気づくなんて手遅れなんじゃないだろうかと心配になることはある。

だけどそんな気持ちも、自分「のせい」だと抱きしめて、ブルブル震えながら進んでいきたい。

どうせぼくはこれからの人生でも、苦労するのだ。

ならば、自分で選んだ苦労で、苦労していきたい。


この春に、ぼくは何か「のせい」にする自分に、完全にお別れを告げたいと思う。