人を好きになる、技術。



「好きな人が、なかなか現れない」という人の話を聞くことがある。



これまでの出会いについて「この人は顔が」「この人は話が」「この人は仕事が」みたいに、本人なりに好きになれない理由があることが多く、まあなかなか大変だなあとは思う。

「でもちょっといいなって思った人がいたんですけどね」という時はだいたい、相手のほうはあまり本気じゃなさそうだったり、何のアプローチもしてないのに自分だけが盛り上がっちゃったりしてるのが聞いているだけでわかるので、これまた大変だ。

それで本人の結論としては「普通の人でいいんです!普通の人と普通に出会って普通に好きになりたいんです!」というのだけど、さてこの人にとっての普通の人というのは一体どこにいるのだろうと困ってしまうのである。

だいたい、よく考えてみると、普通の人というのは、色々と欠点もあるから普通の人なのであって、顔がイマイチな人もいれば、話がつまんない人もいるし、仕事が大変な人もいるだろうけど、だけど総体としては「普通」な人なんて世の中にはいくらでもいる。

大切なのは、そういう普通の人の中に隠されている、自分が好きになれる部分を見つけていくことなのだと思う。


そういう視点で恋愛におけるプロセスを考えてみると、ちょっと選択肢が変わってくるかもしれない。

例えば、はじめてのデートは、あえて、お互いに「共通して苦手なこと」に一緒に挑戦してみるとか、どうだろう。

お互いに体力に自信がないのであれば、あえて山登りにチャレンジしてみるとか、おしゃれにコンプレックスがあるなら、勇気を出して一緒に敷居の高いお店に入って色々試着してみるとか、そうすると、実はすごく優しい人だとわかったり、実はとんでもないユーモアのセンスの持ち主だということがわかったりと、その人が普段は見せない一面が見えてくることがある。

あるいは、お互いのマニアックな趣味について、今日は相手が好きなゲームについて体験する日、今日は自分が好きな盆栽について語る日、のように紹介しあうのも楽しいと思う(その結果、今後この趣味については自分は参加しなくていいな、という結論が出ても別にいいのである)。

人間というのは自分のことを良く見せようとする生き物だし、繊細な人だと、そういう態度を自分がとってしまうこと自体を嫌悪して妙な言動に出てしまう。

その人が本当はどんな人なのか、そしてどんなところを自分は好きになれるのか、その情報は簡単に入手できるものではないのである。


ひょっとすると、とぼくは思ってしまう。

ぼくらを取り巻く市場経済の仕組みは、あまりにも発達しすぎている。

消費者が商品を購入する時のポイントは何か、それをどのように訴求すれば売れるのか、そしてどうやったら同じものを買い続けてもらえるのか、そういうことが徹底的に追求され続けてきた結果、ぼくらは何かを選ぶ時にほとんど悩まないようになってきている。

どの商品が良いのかを誰かが勝手におすすめしてくれるし、場合によれば、自分で「欲しいな」と思うよりも前にその情報が届いたりするのだ。

恋愛においても、つい「ぼくはね、実はここが魅力的なんですよ」「わたしのアピールポイントはこれなんです」「お買い得ですよ」「さあ買った買った」という流れの中で、スムーズに人を好きになっていきたいという気持ちが生まれるのも仕方がないのだろう。

ぼくらは自分でじっくりと時間をかけて考えて、「好きだ」という気持ちを育てるやり方を忘れてしまっているのかもしれない。


もちろん、ある瞬間に雷に打たれるようにして誰かを好きになる現象を否定しているわけではない。

だけど、そういうシーンというのは、普段から「自分はどんな人が、そしてどんなことが好きなのか」について、ちゃんと考えているからこそ生まれるのだし、それは他人の評価とか世間体とか、そういうものとは別に、じっくりと養ってきた自分の目でしか見つけることができないのだ。

それじゃあどうやってそれを育てていけばいいのか、と聞かれたら、ぼくはそれがあたかも簡単なことのように(実は全然簡単じゃない)、サラっと言ってのけるようにしている。


よく噛んで、よく味わえばいいだけですよ、と。