会話の途中で、スマホをいじる意味。


話の途中に、相手がスマホをいじりはじめる。



いまや、どこにでもある光景だ。


それについて怒る人もいるし、知らないふりをして話を続ける人もいるし、同じように自分もスマホをいじりはじめる人もいる。

パッと見た感じは、相手の目を見ていない(あるいは明らかに話を聞いていない)こと以外に、それほど大きな事件が起こっているわけではない。

けれども実はスマホを使って、「その場とは全く関係のない世界とやりとりをしている」という状況は、これまでの人類史上はなかった経験だ。

今までは、女性を口説きながら、恋人と別れて傷心の友人を励ますことはできなかった。

子供といっしょに公園で遊びながら、小学校の同級生との再会を懐かしむことはできなかった。


ぼくらは「いま、ここ」にいながらにして、スマホやパソコンの向こうから様々な役割を求められていて、それを同時にこなそうとしている。

そうやってみんなが同じ空間にいながらにして別々のことにとらわれていくと、ここにある「現実」自体の意味も変わっていく。


というような話は、『情報社会のソーシャルデザイン―情報社会学概論Ⅱ』(公文俊平・大橋正和 編著,2014,NTT出版)の中で、鈴木謙介さんが担当されている第4章『「災後」における社会の意味―空間の多孔化に抗して』を読んでの受け売りだ。

現実の空間に恋人と一緒にいるからといって,ケータイの向こうにいる相手よりも,恋人のほうが絶対に優先されるとは限らない.むしろ現実には私たちは,目の前にいる恋人から向けられる期待と,ウェブ上でコミュニケーションしている相手から向けられる期待を等価なものとして捉え,その優先順位を判断しながら,どのように振る舞えばいいのかを決定している.

(前略)いまや現実空間はメディアを通じて複数の期待が寄せられるた多孔的なものになっており,また同じ空間にいる人どうしがその場所の意味を共有せずに共在するという点で,空間的現実の非特権化がおきているのである.


これまで、ぼくは自分の現実を変えたいと願ってきた。

そして、そのヒントはブログやインターネットにあるのだと思っていたし、いまもそう思っている。

だけど、もはや現実というものの本質が変化していて、ぼくらの現実というものは「いま、ここ」ではなく、あちこちに点在しているのだとしたら、ぼくが変えたかった現実とは何なのだろう。

これまではゆるぎない現実であった「仕事」や「家庭」ですら、危うい状態にあるのだとしたら、ぼくは一体何を変えればいいのだろう。


ひょっとすると。


いまぼくらが生きている世界において「現実を変える」というのは、「今の現実をぶっこわし、新しい現実を作り上げる」というダイナミックな行為ではなく、「どんな現実に関心を持ち、どのようにそれらをたぐりよせ、どんなふうに自分の現実に編み込んでいくのか」ということなのかもしれない。

そして、そのために有力な方法のひとつが「自分について語ること」なのだと思う。

自分はどんなことが好きで、どんなことが嫌いなのか、どんな考えに共感し、どんな意見に違和感をおぼえているのか、そして、どんな世界で生きたいと思っているのか。

それらについて自分語り(ナラティブ)を続けていくことで、ぼくらは自分の現実をちょっとずつ変えようとしたり、あるいは維持しようとつとめたり、誰かと共有したりしているのだ。


もちろん、人が自分についての話ばかりをしているのはあまり美しい光景ではない。

むしろ大切なのは、その話を聞いたり、それについて自分の意見を投げ返す人がいることであり、またそれに触発された誰かが新しい考えを話しはじめることだ。

そうやって、無限のやりとりの中で、ぼくらは確実に新しい現実を作り出している。


だから、話の途中に相手がスマホをいじりだしたら、なぜスマホをいじりたいのか聞けばいいし、聞かれた人はその理由をしっかりと語ればいい。

その結果、やっぱり今はスマホをいじってほしくない、という意志を伝えることもあるだろうし、逆に、いまスマホで連絡を取っている人とのことを優先したほうがいい、という結論になるかもしれない。

あるいは、ぼくもそこに参加しよう、という話になるかもしれない。

そのやりとりをとおして、また新しい意味が生まれていく。


この世界は「あらかじめ決められたもの」ではなく、「いま、ここ」に関わっている人間同士が作っていくものだ。

それは特別な話ではなくて、これまでもそうだったのだ。

ただ、急速に狭くなっていく世界の中で、その機会やスピードがどんどん速くなっていっているだけだ。


だからこそ、ぼくは自分がどんな現実を生きたいのかということについて、これからも考え続けたいし、話し続けたいと思う。

別に変な義務感とか焦燥感から来るものではない。

そうしたほうが、もっと人生が楽しくなるだろうから、というシンプルな理由である。


だから、これからもブログを書いていこう。

そして、読んでいこう。