クリスマスの街で、糞尿を想う。





クリスマスのイルミネーションがきらめく街中を通りすぎながら、ふと糞尿のことについて、思った。


ぼくは小さい頃から腹が弱くて、しかし小学校では当時、大きいほうをしているのがバレると囃し立てられるという悪しき空気があり、便意をもよおすたびに他人の目につきにくい理科室のトイレのほうへと小走りに向かっていたのを思い出した。

数年前には出勤の直前に急な断水があって、ぼくのものが流れない状態から息子のものを重ねざるをえなくなり、お父さんのやつの上なんか嫌だ嫌だという子供をなだめすかして遂行させたのを思い出す。

神戸の震災があったときはそれどころではなく、ありとあらゆるトイレにそれがうずたかくなっていて、いかに自分たちが普段、快適な環境の中で守られているかということを痛感したと聞く。

ぼくらは、ご先祖たちが気の遠くなるような時間をかけて構築してきた、人類の悲願といってもいい、この居心地のよい仕組みに支えられて、生かされているのである。

もし古代の人々がいまのぼくらの生活を目にしたら、自分たちの望みはすべて叶ったと、そう思うのかもしれない。


この時期に寒空の下を肩を寄せ合って歩いていく恋人たちや、プレゼントを選んでいる親子の幸せそうな姿を見ていると、ものすごく自分が不幸な人間であるように感じて落ち込む、と言っている人が先日いたのだけれど、12月というのは、たしかにそういう月ではある。

しかしそんなキラキラとしたにぎやかな光景も、糞尿の処理がしっかりとなされているインフラがあってこそ成立しているわけで。

恋人たちが食べたクリスマスディナーが胃の中で消化されたあと、人目に触れないところで排泄されて、清潔に運搬されていくから、彼らは今日おろしたばかりのピカピカのブーツを便にまみれた街路のせいで汚さなくてすんでいるのだ。


ぼくらはこれまで「誰が見ても幸せな光景」や「誰が見ても価値があるもの」を、さまざまなメディアや場面をとおして目にしてきて、それが良いものだということを無意識の中で学んできている。

だけどそれは物事の一面的な理解でしかなくて、それを支えている糞尿処理システムの発達の素晴らしさや、はるか遠方からさまざまなプレゼントを運んでくる物流ネットワークの進化(それはサンタクロースそのものである)の見事さなど、ぼくたちが歓迎するべき「幸せ」はこの世に満ちあふれているのだ。

そういったものが一切目に入らず、世間が「これは価値ですよ」と規定したものしか価値として感じられない状態は、とてもつらい。

クリスマスがつらいと思うのは、他人の決めた幸せ以外の、自分なりの幸せを見いだそうとする想像力が足りない時である。

いろんな事情がある。

特に人間、弱っている時というのは明るいイメージを描きにくいし、他人が幸せそうにしている様子をまざまざと見せつけられると、理屈ではなく悲しい気持ちになることもある。


だけれども。


ぼくらのご先祖は本当に優しい人たちばかりで、そういう時のために、小説や映画や音楽などに没頭する楽しみや、熱い風呂につかってぼーっとする時間や、湯上がりにおいしいお酒を飲む喜びなど、さまざまな知恵を残してくれている。

人の幸せに嫉妬しているヒマがあったら、昔の人たちが時空を超えて、ぼくらに授けてくれた素敵なプレゼントの包みを1つずつ開けて、感謝の気持ちとともにそれを堪能しようじゃないか。


糞尿に、乾杯。