テキパキできない人の、未来。



ものごとを、迅速に、正確にやるのが苦手だ。



忘れ物もよくする。

このあいだなんかは、オフ会で借りていた会議室のカギをリュックに入れて持って帰ってしまった。

そんなぼくがまだなんとか社会的な生活を送ることができているのは、奇跡としかいいようがない。


シロクマさんの面白いエントリを読んで、ちょっと考えたこと。
テキパキしてない人、愛想も要領も悪い人はどこへ行ったの? - シロクマの屑籠


世の中の多くのことには、ますますスピードと正確さ(氏がおっしゃるところの「テキパキ」していること)が要求されるようになっている。

テキパキと行動できるためには、的確な状況判断が必要で、そしてそのためには「いま自分がやっていることに関するルールと、そこにおける勝ちパターン」を理解する必要がある。

テキパキしている人は、そういったものを瞬時に把握する能力を身につけているのだと思う。

きっと、多くの人にその能力がはじめから備わっていたわけではなく、これまでの人生の中で試行錯誤しているうちに、どうやら「テキパキしていること」が高く評価されるようだと学習し、その能力を磨いていった結果なのじゃないかなあとも思う。


しかし、ここにどうも、混同が起こっている気がする。


たしかに情報革命以降、世の中はどんどん便利になっていって、ぼくらは欲しいものを迅速に正確に入手できるようになってきている。

しかしそれはあくまで情報のやりとりのスピードと正確さが飛躍的に進んだからであって、人間の能力が発達したからではない。

人々は「目的を迅速に正確に達成すること」を求めているけれども、それと「だから人間は常に迅速に正確に業務を遂行するべきだ」ということは別のことだ。

仮に牛丼屋さんの店員さんがダラダラとしていてペチャクチャと雑談していても、お客が求めることがものすごいスピードで、かつすばらしい正確さで満たされるのであれば、問題はないはずだ(それでも店員の態度が悪いと毒づく人間はいるだろうけれど)。

ぼくも含めて多くの人は、「欲望を瞬時に正確に満たすこと」と「それを人間に求めること」をどうもいっしょくたにしているように感じる。


テキパキと働く人のライバルは、同じようにテキパキと働いている人ではない。

彼らは、機械と戦っているのだ。

これはかなり不利な戦いである。

敵は情報革命以降ものすごい勢いで日々進化を遂げていっている。

人間と同じかそれ以上に学習することができ、休憩を必要としないし、食事もとらなくていいし、病気にもならないし、おまけに死なない。

やがてこういう人たちの多くは、機械に憧れるようになり、身体にさまざまな情報機器を埋め込み、自らが機械と融合することを望むようになるだろう。


だけれども。


そういう選択をすることも、別の選択をすることも、自由だ。

持ち前のテキパキさを活かして自らの機械化を望む人もいれば、別のアイデアを使って別の生き方を考える人もいる。

機械は別に人間のライバルでもなければ敵でもない、と考える人は、より自分たちがのんびりと、楽しく、そして幸せに生きていけるように、機械をうまく活かしていけばいいのである。

しかし、そういった知恵は、いま「人間に対して、機械と同じようなことを望む人」には到底思いつかない種類のものだろう。

人間の幸せについて考えるためには、人間の心から目をそらさないことが必要だからである。


まあテキパキするのが苦手なぼくは、そっちの未来に賭けるしか手がない、ということはもちろんあるけれども。