挫折自慢を、やめたい。



挫折だらけの人生だ。



しかし世の中には便利なレトリックがあって、自分の挫折体験について語ることで、逆に人間としての厚みが増すように見えたりする。

また、お互いに自分が挫折してきたことを話し合うことで打ち解けることもできたりする。

ぼくはどうも口だけ達者なせいで、そういう言い回しで相手を煙に巻いたり、本当に挫折を乗り越えて、ちゃんと努力してきた人と同じステージに乗ろうとしたりしてしまう。

まあたしかに表面上はそうやってごまかせる場合はある。

けれどもあまり繰り返していると、挫折することを本当に悔しいと思わなくなるような気がして、ここのところ、どうもよくないなあと思いはじめた。


どうも大人になると、「挫折を経験せずにストレートに進んできた生き方」をバカにする人が増える。

何も痛い目に合わずに育ってきたおぼっちゃんなのね、とか、世間知らずの頭でっかちなやつ、というレッテルを貼ろうとしたがる。

そして、反対に、「色々と苦労してきて今がある人」を礼讃しようとする。

冷静にかんがえると、今まで大きな失敗をせずに成功を収めてきた人は、その分野においてはぜひ見習うべき人だし、挫折した人というのは、結局は見通しが甘かったり、成功するまであきらめずに努力を続けるほど根性のない人だったりするかもしれない。

ところがぼくも含めて一部の人はつい「挫折体験があること」を勝手に1つの価値として評価し、そうではなく順調にやってきた人と比較してしまったりする。

ここには本来の結果についての評価以外の「挫折体験がある人は大きく加点」という新たな文脈なり合意が形成されているのである。

「苦労してきた人は偉い」という文脈は、うまく苦労してきた人と苦労してきた人をつなぐことができる。

そして「オレらはあいつみたいに育ちも頭も良くないからさ、ずいぶん苦労してきたんだよね」というあの独特のレトリックが誕生してしまうのである。


もちろんこれはとてもよくできたセーフティネットなのだと思う。

失敗をしてはいけない、やりたいことをあきらめてはいけない、ということが全ての価値基準だったら、その世界は本当に息苦しく、ぼくらはいつも他人の失敗を願うようになるだろう(実際にそういうコミュニティがあるように)。

また、人生というのは本当に試行錯誤であるから、失敗を恐れていては新しい発明も、革命的な発見も得られないだろう。

だからぼくは失敗や挫折体験というものを全力で受け入れたいと思っている。

いつだって、失敗した人間が再起できる環境があるということは、本当に素晴らしいものだ。


だけれども。


やっぱり失敗や挫折を許容する、ということと、それを過剰に評価する、というのはまったく違うことなのだ。

しかし世の中は、極端に失敗を咎める世界と、極端に挫折を評価する世界に分かれすぎているように思う。


残念ながら、ぼくは、他人の評価が気になってしかたがない。

だけど、ぼく自身の、ぼくに対する評価こそ、本当は一番大切であって。

そこで「ぼくは挫折を経験していて苦労しているから、はい、加点」なんてものは、もういらないのじゃないかなあと思いはじめている。


そんなことをしなくても、ぼく自身は、ぼくがちゃんとがんばっているのを、知っているのだから。