僕らは普段、他者の色々な価値観を「これが生きるためには必要なんだ」という文脈によって押しつけられ、悩んだり、苦しんだりする。
遅くまで働いていないと、ちゃんと稼ぐことはできないぞ。
お客さんの言っていることを聞かないと、仕事がなくなるぞ。
社会の常識に合わせないと、生きていけないぞ。
そうやって「生きること」を人質にした卑怯な手口で、いつも抑圧されている。
これに抵抗するための僕にとっての武器はたった一つ、自分の「好き」を表明することだ。
「好き」は、積極的な価値の肯定だ。
「好き」は、何かの担保を要求するようなせこい真似はしない。
そして「好き」は、(それだけでは)決して他の価値観を否定したりはしない。
僕は、家でダラダラするのが好きだ。
ああでもないこうでもないと考えるのが好きだ。
それについてまたああでもないこうでもないと、人とぐだぐだ話し合うのが好きだ。
そしてそんな話をブログに書くのが好きだ。
僕はそうやってどんどん自分が好きなことを表明し、自分にとっての価値として肯定していく。
「好き」は無防備で、傷つきやすい。
お前が好きかどうかなんか知らないよ、いいから黙ってやらなければいけないことをやれよ、とこう言われたら一撃でやられる。
しかしここでひるんではいけない。
なぜなら「好き」は防御ではなく、強力な攻撃の手段だからである。
やられても、次の手を繰り出せばいい。
「好き」は一つではないからだ。
僕は仕事だって、好きだ。
仕事のどういうところが好きかといえば、人に喜んでもらえるところ。
自分の持っている力をちゃんと使い切れるところ。
日々のなんでもない作業の中でも、新しい発見に出くわすことができるところ。
もちろん給料のために働いているのもあるけど、もっと僕を動かしたいならば、そういう部分をちゃんと刺激して、もっとワクワクさせろよ、と僕は言う。
そして、自分がそうやってワクワクし続けられるようにもっと工夫しろよ、と自分自身にも言う。
「好き」のすごいところは、無限に増殖していくところだ。
今まで嫌いだったことでも、ちょっとしたきっかけと、ちょっとした意志と、ちょっとした研究があれば、それは好奇心の標的に変換される。
僕はいわゆる団体行動なんて大嫌いだ、人生なんか一生ソロ活動だ、と思っていたんだけど、年を取ってそういうのを自分で計画しなきゃいけないことが増えたりすると、まあはじめはイヤイヤやり出したのだけど、そこで気づいたのが、集団で行動するのが嫌いな人間こそ、それを計画するべきなんじゃないかなということで、だって自分が一番心地良いように行程を作ってしまえるんだもの。
そうやって、自分の変化を肯定していくことで、もっと新しい「好き」を増やしていく。
僕が肯定したい「好き」な価値観というものはどんどん増殖し、「こうでなければいけない」というくだらない価値観の殻を食い破り、飲み込み、消化し、新たな「好き」に再生していく。
もうお気づきかもしれないが、これは、他者と僕との戦いではなく、僕の中での戦いだ。
「好き」というとんでもなく打たれ弱くて意気地のない、しかしすごく貪欲で生命力にあふれた武器を手に、自分の中に構築されてしまっているくだらない思い込みをぶち壊していく、仁義なき戦いなのである。