ほとんど何もしゃべらずに、参加していた。





先日、とある通夜に出た。


長い、長い、数か月にもわたって続く通夜だった。

僕はその間、故人とその家族についての話を聞き続けていた。

時々ブコメで相槌を打ったりしながら。





電気レモンさん(id:denkilemon)の「家族の肖像」シリーズが先日ようやく完結を迎えた。


最近、父上を亡くしたばかりの氏は、色々と整理しきれない気持ちをブログに書きつづっていた。

その内容はすごく個人的なことなので、あまり深くは触れない。

(ご興味のある方は、こちらを)
"家族の肖像" - 記事一覧 - ドキドキしちゃう


とにかく、電気レモンさんは語り続けたし、僕はそれを聞きつづけた。


氏の文章はとても軽やかで、生き生きとしていて、しかし内省的で、時折あまりに内省的すぎて読むのがしんどい時があった。

そこまで自分の内面に向き合おうとしなくてもいんじゃないか、You、逃げちゃいなよ!と言いたくなる。

本人にとっては気持ちを整理するための重要なプロセスなのだと思うけど、読んでいるこっちのほうが疲れてくる。


それでも読み続けてみることにした。

なぜだか全くわからないけど、今はそういうタイミングなのだという気がしたし、氏がいったいどういう結論なり答えを出すのかを知りたいとも思った。





当たり前すぎて恐縮だが、この社会は、人と人の関係によって構成されている。

人が人となんらかの情報を交換しあい続けることで、なんとか形を保っている。

うれしい感情も、悲しい気持ちも、おさえられない怒りも、伝える相手があるからこそ発信することができる。

しかし、思いを伝えたい相手がいなくなってしまえば、やりどころのない感情はどこへ収めたらいいのか。


故人は何も語らないし、何も聞くことはない。


通夜に親族や親しい者たちが集まり、故人についての思い出話を夜通し語るのは、その人のことを知っている人間同士でないと、さまざまな感情を共有できないからかもしれない。

だが僕は、単なる通りすがりのブログの一読者である。

なので、自分ができるたった1つのことをやり続けることにした。


ただ聞くだけ、ということ。





僕は電気レモンさんの話をひたすら聞く、という形で、氏の父上の通夜に参加した。

そして、大切な人がいなくなったことによって与えられる、あの一種すがすがしくさえある喪失感や、やりどころのないモヤモヤした気持ちを味わった。

別に、それによって何かを僕が得たわけではない。

ただ、他人の個人的なできごとに、ただひたすら受動的に付き合う、という経験をした、という事実があるだけだ。


最近、よく思う。


生きているということは、やっぱり、他者から何かを与えたり、与えられたりする営みそのものにあるのだ。

それがどれほど憎しみに満ちた言葉であろうと、嫉妬に狂った結果の行動であろうと、その営みは今ここに生きている誰かのものとして発信され、また別の誰かに受け止められる。

僕はただ、そのプロセスに、生きている限り関わり続けていたい。

自分の命だって、色んな人間たちのそういった気の遠くなるような複雑なやりとりの結果、ここにあるのだから。


さてそうなると、生者と死者のあいだの交流は成立しないのか、ということになるのだけど、その話はまた機会があれば。



今はただ、あなたとの、この静寂なる交流を楽しみたいので。