色んな、「いいひと」たち。






感想をブログで書いてもらえると喜ぶグループは、気にあるエントリがあったら、自由に感想を書いてもらってかまわないという奇特な人々のタグである。

今回は、それ以外の方も参加しての面白い議論が起こっているので、僕も参加したいと思う。

ちなみに意外と、お祭り好きです。



★「いいひと」のゆくえ


自分の頭の整理のために、今回の祭り、いや議論をすごく乱暴にまとめると、

相互レビュー社会を生き抜く倫理経済学〜岡田斗司夫『「いいひと」戦略』 - 情報学の情緒的な私試論β

で、池田仮名さん(id:bulldra)が、岡田斗司夫さんの『「いいひと」戦略』という本を読んだ感想を書いた。

その本には、これからの超情報化社会においては人々はお互いを評価しあうのが普通になるので、「いい人」でいることが生存戦略の1つとして有効だと書かれていたらしい。

仮名さん自身は

本当のことを言えば「都合のいいひと」と言われるのも残念なので「戦略」だとでっち上げているだけなのかもしれませんし、本当に性格を変えてしまう費用対効果は微妙なのですが、その素質があるのなら、いいひと「戦略」を遂行するのも一興ではないでしょうか。

としめくくっているので、まあ、人によるよね、ということで、ここでの意見は保留にして、もうちょっと思考を深めたいんだと思う。


そこで、このエントリを読んだネスさん(id:FFCCEoT_NESS)が、

「いいひと」じゃなくても良い。 - 隠れ家日記

で、この「いいひと」を演じるという考え方に違和感をおぼえるという感想を書いた。

おいらの考え方としては、「理解してもらう」ための努力を惜しまなければ、そして「理解しようとする」ことを忘れなければ。そんなに「いいひと」を演じる必要なんてないんじゃないかな、と思っています。


それに対して、仮名さんが新しいエントリで返信。

3:4:3<さしみ>の宿命論と確率変動〜コミュニケーション能力は確率変動のためのものである - 情報学の情緒的な私試論β

ここについては、同じ意見ではあります。決して無理に演じろということではなくて、どちらも同じぐらいの感情負荷であれば、いいひとを選んだ方が期待値が高くなるので、結果として費用対効果が高いかもという話です。演じる負荷が高いのであれば費用対効果的にも割に合いません。「感情労働」に債権感を感じてしまうのも仕方がありません。

 しかし、私自身は「人格労働」と表現していた事があるのですが、殆ど感情労働的な負荷が発生しないで感情労働の文脈における「正解」が選べる場合がある事も認める必要があると思うのです。

と、丁寧に書きながらも

「いいひと」について書くほど、私が「イヤなひと」にセッティングされるという問題について、なんとかならんものか・・・。

とぼやいている。


さらに、あざなえるなわのごとしさん(id:paradisecircus69)が

評価経済社会でのベタ足インファイト - あざなえるなわのごとし

で、

読んでて違和感があったので評価経済社会についてだけ一つだけ。
間に割って入るつもりはありません 笑

と断りを入れつつ、

評価経済社会」になるともうそもそもの現代の貨幣の価値が下がってる。
評価の価値がグンッと上がってる。
そういう社会だと叩く叩かれるの作法も違うと思うんですよね。
だって評価が貨幣にとって代わる社会なんだから、って事は誰しも自身の評価を上げようとする。
だからこそ「いいひと戦略は有効だ」論に信憑性が出る。
今は貨幣が評価よりも低いからそりゃあ違う。
相違のあるパラダイムのフォーマットでは、そりゃあコンフリクト出まくり。

と、丁寧な感じで、間に割って入られた。


ここで、「そうだね、前提がちょっと違ったかもね、思っていることは似ているよね」といった感じで、いったん議論は収束に向かったと思ったところ、


あきさん(id:akio6o6)が、

なぜ自分は「いいひと戦略」をすんなり受け入れられたのかを考える - ウラガミ

というエントリの中で、

自分は基本的にはいいひと戦略を支持しています。
書籍のもとになった講演(下に動画載せておきます)を見た時も特に違和感なく、そうだよなーと思ってました。で、今回の記事群を読みまして「(こんなにいろんな意見があるのに)なんで自分はすんなり受け入れてるんだろう?」と思ったわけです。

という意見を書かれたわけである。


ちなみに、この議論のあいだじゅう、みんな、なぜかバンブルビー通信さん(id:bbb_network) のエントリ

世界はいつでも3:4:3 ブログを書いていると「さしみの法則」が身に沁みる - バンブルビー通信

について言及しており、バンブルビーさんご自身もなぜ巻き添えになったのかよくわからない状況を含め、いい味を出している。

いいひと戦略というのをあまり意識しないで書いた記事だったので、またまたびっくりしてます。


★人を評価することのむずかしさ


そんなわけで、予想外の展開を見せている「いい人」についての議論だけど、ここまで盛り上がるのは、人が人を評価することに対する違和感があるんじゃないかなと思う。

実際は、学校や職場の中で、僕らは常に他人から評価を受けている。

多くの人がそうだろうけど、僕も、もはやそれが当たり前になってしまっていて、会社の評価面談ではどれだけ自分がすごい業績を上げてきたかを盛って、盛って、盛りまくって話すのが普通だし、得意先へのプレゼンテーションなんか、自分の話がどのように評価されるかを考えるのが大前提だし、ブログを書く時も、いぬじんさんってイヤなやつだよねって極力思われないように気をつけているつもりである。

ただ、まあ少なくともインターネットにおいては、そういう気遣いはなるべくしたくないなと思うし、いちいち相手からどう評価されているのかを考えていたら、現実社会でのストレスをそのまま持ち込んでいることになるので、楽しくないな、とも思う。


しかし残念ながら、人は人を評価している。

ただ考えるべきは「何を評価しているのか」ということだ。


あの人は「いい人だね」というのは、その人物が自分にとって利益をもたらす場合に限ることも多い。

だけど、「いい人」を評価するための指標はそれだけじゃないだろう。


普段は怒ってばっかりでうっとうしいけど、弱い人のことは全力でかばおうとする人がいる。

すごく面倒見が良くてやさしいんだけど、自分の意見は無理にでも押し通そうとする人もいる。

「嫉妬心が強い」人間はダメかといえば、実は「向上心のある」人なのかもしれないし、「他人にやさしい」人はいいヤツなのかといえば、「自分にも甘い」ヤツかもしれない。


そんな人間たちを「評価」するには、非常に複雑な計測方法が必要となるだろう。


その話をすっとばして「評価社会だ」と言ってしまうと、まあ違和感は出る。



★人間らしさへの注目


まあ結局「いいひと戦略」というのは、あざなえるなわのごとしさんが書いているように、現在の貨幣偏重型の経済構造に対するアンチテーゼとして掲げられているだけなので、その是非はこれから色々と進めていけばいいと思う。

ただ思うのは、これから、僕らはますます人間そのものを見つめるようになるだろう、ということだ。

そこで、これまでに気づかなかったような人間の特性を知ったり、あるいはもともと備わっていたけど忘れていた本質についての再発見が行われ続けていくと思う。


そして、その結果「人間らしさ」というものも少しずつ変容していくかもしれない、という予感もある。

その変容は、僕ら人間にとって良い結果をもたらすのか、破滅へと導くのか、わかったもんじゃない。



しかし、そういう時はいつも、僕は同じ態度でいようと思っている。



すなわち、未来というものは、現在よりも面白いはずだ、というバカバカしいほどに楽観的な態度なのである。