書くのはいつでもやめられる。


作家の橋本紡さんが「僕は書くのをやめるかもしれない。」ということをブログに書かれていた。
「いくつかの作品がヒットすることはあるし、
けっこうな収入になるけれど、それが続くことは稀だ。
執筆だけで人並みの生活を送ることは、
もう不可能なのではないか。」とも。


ここからは、僕の感想と意見。


周知の通り、情報革命によるコンテンツ大爆発のおかげで、
僕ら表現者はこれまで経験したことのない過当競争に直面することになった。

いや、これは競争なんて呼べるものではない。

お金を1円ももらわなくてもプロよりはるかにたくさんのファンを持っている素人が山ほどいる。

そして、スマホのゲームは腕の立つ絵師による美しいカードと
小さな欲望を駆り立てる絶妙なテクニックによって、
執拗に僕らのアイドリングタイムを吸い取っていく。

それはもはや、全ての人の時間をめぐる大争奪戦だ。

そんな中で、小説はかなり不利な戦いを強いられるだろう。

スマホを触ればわずか十数秒で小さな欲望が満たされる時代に、
面白いかどうかもわからないコンテンツに対して
数時間から数日もの時間コストをかけるなんて
正気の沙汰ではないからだ。

マネタイズできるくらいの固定読者がいる、
よほどの大作家でない限り、これまで通りに執筆活動を続けていても
多くの人に読んでもらえる可能性は低くなる一方だろう。

この状況は表現者にとって、本当に苦しい。
そして残念ながら、表現者というものは非常に繊細なので
表現活動以外における不安が色々と増えてくると、
仕事自体にも直接影響が出てくる。

いくら楽しいことを書こうと思っていても
心配事だらけだと、何のアイデアも浮かばない。
人々を勇気づける情熱的なシーンを描こうとしても
自分自身が臆病になってしまっては、どうしようもない。

多くの人々は、そういう表現者の特質を評して、
自分の殻に閉じこもって、すぐに傷つくひ弱な人間たちだと
バカにするのだろうけど、これは創作におけるメカニズムとしては不可避なのだ。

タフでマッチョな精神構造だけでは、表現者にはなれない。

しかし、である。

表現者は前線に出るべきである。

いつまでも「仕事を見つけてきてくれる他の誰か」の後ろに隠れていたってしょうがない。
どうすれば自分たちが伝えたい想いや未来を少しでも多くの人々に伝えられるかについて
自分たちで試行錯誤するしかない。

たぶん何度も失敗するだろう。
見当はずれなところへ誤爆もするかもしれない。

しかし、それでも前に出ていくべきだ。

もはやメシのためなのか、自己満足のためなのか、承認欲求のためなのか、
そんなことはどうでもいいことである。

傷つきながら、迷いながら、自分なりの答えを出していく。
その過程自体が、これからは表現そのものになっていくという予感がする。

今より楽しい未来を生むためのきっかけを作る。
それが表現者の役割だからである。