道なき道を行こう。






僕らは物心がついた頃から、進むべき道を知っていたと思う。

ひらがなを全部読めるようになればいい。
小学校に1人で通えるようになればいい。
スポーツや受験でライバルを競い合えばいい。
就職してお金をもらえばいい。
結婚して幸せになればいい。
家族に見守られながら死んでいけばいい。

その道が、ふと気づくと、見えなくなっていた。

世の中に、まるでひどい嵐のような大変化が巻き起こって
乱暴に地表にあった色んな目印を削り取っていったので
僕らはいったいどっちに曲がればいいのかとか
曲がらずにまっすぐ行くべきなのかとか
判断することが難しくなってしまった。

色んな道を歩きなれてきた先達たちは
わずかな道の残骸をもとに、全体像を推し量って
ちょっとずつ前に進んでいくけれど
それが決して正しい方向であるとは限らないことに
後続の僕たちは気づいているので、自然と足が鈍るし
もっと後ろの方から歩いてくる若い人々は
先頭集団が誤って断崖絶壁のほうへ向かっていないかを
常に望遠鏡でちらちらと確認しながら
ゆっくり、ゆっくりとしか進まないと決めこんでいる。



これはポエムではなくて、僕の素朴な現状認識。

僕が今の年齢になるまでに、日本は、いくつかの大きな経験をしてきた。


バブル経済とその崩壊。
「不況」という言葉の定着。
いくつかの大きな震災。
そして、情報革命。


定年が近くなった諸先輩方に、最近、僕は必ず聞くことがある。

「これまでの広告屋としての人生で、今のこの時代よりも
大きな変化が起こったと感じた時はありますか?」

ほとんどの答えは、NO、だ。

もちろん写植が無くなった時とか、フィルムが不要になった時とか
小さい驚きは色々とあったらしいが
やっぱりインターネットの台頭ほどのインパクトではなかったらしい。

まあ偶然、広告代理店という、情報産業で働いているから
その影響をもろに受けているわけで、他の産業は違うかもしれない。

だけど、非常に手堅いメーカーに勤めている知人の
職場は一夜にしてアメリカ人のボスだらけになってしまったし
将来を嘱望されて医師になったクラスメートは
なぜか法律の勉強をするために大学に戻ってしまった。

それは彼らのそれぞれの事情だったり意志だったりするので
すべてを世の中の変化のせいにするのはおかしいと思うけど
とにかく、若い頃にイメージしていた未来とは
まったく違ったものがやってきていることは間違いない。


そして、今の僕たちにできることといったら
そんな新しい現実を受け入れることしかない。

これまで進んできたような道は、もうこの先にはない。

僕らよりもずっと前を歩いてきた人々が語るような
幸せや喜びといったものは、すっかり形を変えてしまった。

そのことを、受け入れるしかない。



一方で、僕らは新しいものを発見することもできる。

資本主義のやわらかな崩壊と、情報革命による平均化という地盤の上に生まれる
ちょっと違った価値観たちと、それらによって引き起こされる生き方の変化。

そこにはまだ道しるべはないし、舗装された歩道なんてもちろんない。

でも、とてもありがたいことに、旅人を惑わすような余計な昔の道の残骸もないのだ。

だから、僕たちは心ゆくまで歩き続けることができる。

どこへ行くのも、どこで立ち止まるのも、そしてまた歩き始めるのも、すべてが自由だ。

正解なんて、どこにもないんだから。


さて、それを不幸だととらえるのか、幸せなことだと考えるのかも、自由である。

少なくとも僕は、もう諸先輩方が踏みしめてきた足跡だらけの道を歩くのはやめた。

それはそんなに難しいことじゃなくて、会社での出世をあきらめるとか、
他人の成功をうらやましく思わないとか、始めてのことに挑戦してみるとか
あと、自分の行動と結果に対して自分で評価を与えてみるとか、
そういうシンプルなことである。

多少なりとも、孤独を感じることは否定しない。
空気の読めないやつだとか、付き合いの悪いやつだとか
思われているのは知っている。

だけどまあ、ある程度さみしい思いをしても
次は何をやってみようかとワクワクしながら
毎日を過ごせるほうが、楽しい人生だと思うのだが
まあそれは人それぞれなんだろうな。


実は、ちょっとくらい孤独でいるほうが
人との出会いをありがたく感じられると
思うんだけどね。