仮に今日、僕が死んでしまっても、仕方ないとも思う。

 

 

 

 

 

 

僕には家族があり、子供も小さいので

せめて子供が大人になるまでは

生きていたいと思うけど

最悪、今日のうちに死んでしまっても

それはそれで、仕方ないかもしれない。

 

 

生きることに飽きたとか、疲れたとか

そういうことでは全くないのだけど

ふと、そう思うことがある。

 

 

もちろん、本当に死んでしまったら

未練がたくさん残ると思う。

まだまだやりたいことがたくさんあるし

自分が理想する自分のイメージにもたどりつけていないし

知らないことや経験していないことがたっぷり残っている。

 

だけど、それと同じくらい、

自分はやりたいことをやってきたとも思える。

 

それは、すごく些細なことで、

めちゃめちゃおいしいステーキを一回だけ食べたことがある、とか

廃人寸前になるまでゲームをやりこんだことがある、とか

つまらないサラリーマンの分際で、

クライアントからの依頼を断ったことがある、とか

まあそういう自分の中の満足感が、それなりにあるからだ。

 

そりゃまあ世の中、上を求めれば

いくらでも面白いことや、楽しいことがある。

 

僕には、ものすごく金持ちの友人や

ものすごく高い地位の友人もいる。

彼らの遊び方や働き方は想像を絶するものだ。

 

 

でも、彼らと比べても、たぶん僕は自分の人生を

満喫しているほうじゃないかなと、そう思う。

ものすごく平凡で、ものすごく下手くそな生き方だけど。

 

 

 

 

ついこのあいだまで、僕は不全感でいっぱいだった。

 

自分よりもたくさんお金を稼いでる人間がうとましく

自分よりもモテるやつらは全員事故にあえばいいし

自分よりも有名なクリエイターはみんな死んだらいいと思っていた。

 

人間の不全感は、自らが足りていないと感じることからではなく

他者との比較から生まれる。

あいつはできているのに、自分はできていない。

そういう不平等が、人の嫉妬と欲望を駆り立てる。

性的な興奮のことを、劣情、というけれど

すごくよくできた言葉だと思う。

エロティックなイメージを描いた時、

男性は自分の中の「満ちていない」という感情を、

「劣っている」と感じるのだ、と僕は勝手に思っている。

(実際は「下劣」とかから来ているだけなのかもしれないが)

 

あんなにエロティックな喜びを

自分だけが得ることができていない、

 

そう感じることが、不全感につながる。

そしてそれはどんどん蓄積していって、

ドロドロとした嫉妬や怒りや衝動へと変換されていく。

 

これは、全てに言えることだと思う。

 

 

広告は、そういう人間の不全感を利用してきた。

 

あなたの家庭には洗濯機がないんですか。

恋人とデートする車がないんですか。

おしゃれなタブレットがないんですか。

他の人は、持っているのに。

 

なんて原始的な方法だろう。

 

でも、伝説のCMディレクター杉山登志さんは

それを理由ということにして、自分自身の命を絶った。

 

『リッチでないのに、リッチな世界などわかりません。

ハッピーでないのに、ハッピーな世界などわかりません。

夢がないのに夢を売ることなどは・・・とても。

嘘をついてもばれるものです。』

 

しかし、そんな古くさい手に

いつまでも引っかかっている場合じゃない。

 

 

そこで僕は、「あきらめる」という方法を知った。

出世を、あきらめる。

成功を、あきらめる。

人気者になることを、あきらめる。

 

そうやって、まあこれならあきらめてもいいか、

というような願望をどんどん捨てていって

最後のほうに残った、どうしても捨てられないものだけを

心の中にとどめておくことにした。

 

表現者として、自分が納得のいく表現をしたい。

(あくまで、僕の場合)

 

その望みだけをシンプルに

追いかけるようにして、生きている。

 

今だって、それを達成できているとは思えないし

ちょっとでも前に進んでいるのか、怪しいところではある。

生きるためには、他にも色んな仕事をしなくちゃいけないし

信念だって、いつもブレまくっている。

 

 

でも、万が一、僕が今日、死んでしまったとしても

あのコンプレックスだらけの毎日の中で

ズルズルと生きながらえていくよりも

ずっと納得のいく人生だったと言えると思う。

 

 

騙されちゃいけない。

 

 

人は、何かを達成するために生きているのではない。

まして、他人に勝ったり、他人よりも幸せになることなど

生きる目的でもなんでもない。

ただ愚直に、自分にしか見えていない(それすら怪しい)

ような霧だらけの道の中を歩いていくこと。

その行為自体が、生きるということなのだ。

 

少なくとも、僕にとっては。