僕には、あまり人には言いたくない過失が色々ある。
まだブログにも書く気になれないような
まったく頭の整理ができていない悩みも、たくさんある。
おまけに、毎日起こる色んな課題に必死に対処するのに精一杯で
前向きな気持ちになれないことばかりだ。
それでも、思う。
人は、夢を見るべきなのだ。
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僕はもともと
「ゲームのルールをいち早く理解し、有利になるポイントを発見する」
ということが、ものすごく苦手だ。
だから何かに取り組む時は
人よりもはるかに長い時間をかけてやらないと
ゴールまでたどりつけないし
いわゆる「空気を読む」作業も、とんでもなく下手くそだ。
世の中には、その場のゲームのルールを瞬時に把握して
最も的確な行動を取ることができる人がいる。
そんな人々を僕は何人も見てきた。
彼らはたぶん幼い頃から、意識的にしろ無意識的にしろ
そういう訓練を繰り返してきているので
今から彼らに追いつくことは至難の業だ。
僕はそういう「スーパープレイヤー」たちに
何度も打ちのめされ、うすぼんやりと抱いていた
憧れや目標を、次々と手放していった。
多くの人々が知っているように、希望の後の絶望というのは
とんでもないダメージなのだ。
そのうち、オジサンになっても、いつまでも
夢を叶えたいとか言っている人たちを
すごく格好悪いとさえ思うようになっていた。
もし僕が「オレ、まだまだ夢を追いかけてるんだよね」
みたいなことを言ったら、若い人には
「あいつ、たいしたことないオヤジのくせに何言ってんの」
と絶対に嫌悪されると思う。
また、いつまでも自分のことばかり考えて仕事をしていれば
組織においては非難の対象になることも事実だ。
だから、年を取ってから夢を見るということは、ダサいだけでなく
若い世代の成長を阻む「老害」そのものでもあるとも思っていた。
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でも、そうではないのだ。
やっぱり、いくつになっても、夢を見るべきだと思う。
ただし、条件付き。
僕らが見るべき「夢」は、「誰かが見ている夢」ではなく
「自分だけが見ることのできる夢」であるべきだ。
他人にも同じように見ることができる夢というのは
自分以外の誰でもイメージが可能な「単なる目標」であり
誰かが先に叶えてしまうことがほとんどだ。
そして残念ながらこの種の「夢」には定員があったり
わかりやすいヒエラルキーが存在したりするので
多くの場合、自分の限界を思い知らされ、
また、余計な劣等感を与えられるだけだ。
本当の夢というのは、そういうものではない。
他人によって計測されたり
評価されたりするものじゃない。
論理的にはとんでもなく飛躍していたり
具体的な数字や言葉で表現するのは困難だったりして
とても他人と共有できるようなものではないけど
でも、自分の行動に強く影響を与えているもの。
そのもやもやとして、しかし自分だけはその存在を
信じることができる、あるイメージ。
それを言葉にする必要はない。
就職活動のエントリーシートに書く必要もない。
ただ、心の真ん中にしっかりと抱きしめて、
そのあたたかさを感じることができれば
これまで踏み込んだことのない未知の世界でも
勇気を持って進むことができる。
そして、すごく矛盾した話だけれど
どこかで自分と同じような夢を追いかけている人と
出会えた人は本当に幸運だなあと、心からうらやましく思う。