僕はあなたで、あなたは僕で。

 

 

 

 

 

以前のエントリ「仕組みと中身は、どっちがエラい?」について

ツイッターでナルホドなご意見をいただいて

あ、そうだなと気づいた。

 

何かのコンテンツは、仕組みと中身がある前に

「受け手」がないと成立しない。

 

ブログを例にすれば簡単な話。

はてなブログという仕組みがあって

それを使ってユーザーがブログを書いて発信するけど

読み手がいなければ、ブログとしては完結しない。

 

(いんや、別に誰にも読まれなくてもいいもんね、

と本心で思っている場合は除外させていただく。)

 

そして、ここからが大切なのだけれど

広告の場合は「受け手」というものは

「ターゲット」として発信側が対象を選んでいた。

だけど、はてなブログは違う。

 

僕のブログを読んでくださっているみなさんは

同じようにはてなブログを書いている「書き手」でもあるのだ。

みんな、それぞれに面白いブログの筆者として存在し

同時に、他のブログの読者でもある。

 

僕はこの構造に対して、始めは戸惑っていたのだが

実は、これこそがこれからの表現者にとっての

大前提なのだと今さら気づいた。

 

 

つまり、これまで僕は前提にしてきたのは、こういうこと。

普段の生活の中で表現に関わったりすることのない人々を相手に

彼らが気づいていない視点だったり考え方(何を伝えるか)を

どのように伝えればいいかを工夫する。

それさえ集中していれば、よかった。

 

しかし、インターネットの発達によって

色んな情報を色んな角度から入手して精査することが

できるようになったので、よほどの「気づき」がなければ

広告による情報なんて、それほど価値もない時代になった。

 

で、そのうちCGMだとかソーシャルだとか

ワーワー言うようになったけれど

広告業界にとってのそれは

「受け手の変化」にフォーカスしたものであり

表現者自身の変化を置き去りにしていた気がする。

 

つまり、いつのまにか僕らは

どこの組織に属しているとか

何を生業にしているとかは一切関係なく

同じ仕組みのもとに、同じ表現者として

そして、同時に受け手として存在するようになっていたのだ。

 

それは、こういうことだ。

もはや、何かを伝えることと、それを受け止めることは

誰しもができることであり、明確な役割分担なんてない。

そして、プラットフォームだったり「仕組み」だったりするものも

もはや「何でもいい」「どこでもいい」ようになるかもしれない。

そこには無数のあなたと僕と、

そしてあまたの情報が存在するだけなのだ。

 

 

そうなると、何が残るのか。

あなたと僕の「違い」だけである。

それも放っておけばどんどん失われていくだろう。

世の中はさらにスピードと効率化を重要視していく。

そこにランダムな差異が存在すれば、非効率きわまりないのだから。

 

それでも、僕はこの「違い」こそが

人間らしい生活には必要なのだと思う。

色んな人間がいて、色んな生き方があって

違った信念のもとに生きているからこそ

世の中は豊かになり、そして面白くなる。

 

はてなブログに様々な書き手がいるように

それぞれが色んな表現を行い

そして違った受け取り方をすることが重要なのだ。

 

その差異が、さらなる差異を生み、

新たな意味をこの世の中に増やしていく。

色んな可能性とさまざまな未来を育てていく。

 

だから今、表現者にとって大切なことは

自分だけの伝え方を磨くことではなく

他の人間の発信することに耳を傾ける

受け手としての成長だったり成熟だ。

 

新たな表現の可能性を信じるのであれば

多様な表現が発信されることを

自分自身が受け入れるところから始める。

 

そこに身を投じなければ、何も生まれないのだろう。