Twitterとは、何だったのか。

あまりに当たり前のように使っていたので、考えたことがなかったが、ぼくにとってTwitterとは何だったのだろう。

 

2000年代前半

ぼくはインターネット的には、遅れてきた人間だ。

学生の頃のインターネットに関する共通の話題といえば2ちゃんねるだったが、自分で書き込んだことはない。

00年代前半の若手時代、担当していた得意先の経営者がやたらと2ちゃんねるの書き込みを気にしていて、自らずっと見ているという話を聞いて、うわ大丈夫かよ、と思ったのを思い出した。

そんなほんの一部の極端な意見を聞いて意思決定しちゃって大丈夫なのかと。

当時、ぼくにとってはインターネットでの匿名の誰かの意見というのは、そういうものだった。

インターネットはとても面白かったし、世の中にこんなに面白いことを考えている人たちがいるのか、というのはすごく刺激的だった。

でも、所詮はインターネット、光の当たらないところで素人がやっているお遊びだ、とも思っていた。

 

2000年代後半

数年してから、web2.0がどうとか東京の同期たちが騒ぎ始めた。

職場でも急にインターネット、インターネットと言い始め、そういう組織がいくつもできた。

ウェブ進化論』も読んだけど、ピンとこなかった。

なぜかこのあたりから5〜6年、インターネットに関する記憶があまりない。

誰もがインターネットで検索して物事を調べるようになり、ぼくもインターネットなしに仕事することは不可能になっていた。

インターネットはとっくの前に仕事と生活に不可欠なものになっていた。

すっかり、まぶしい光が当たる場所になっていた。

へそ曲がりのぼくには、それがつまらなく感じたのかもしれない。

また、ぼくはコピーライターの仕事を覚えるのに必死だったし、結婚や出産もあったから、他のことに関心を持つ余裕がなかったのかもしれない。

Twitterが登場したのはその頃。

2006年にアメリカで生まれ、2008年に日本語版が登場したらしい。

なんとなく、周りがワーワー言ってたような記憶はある。

あと2008年は日本ではじめてiPhoneが発売された年だそうだ。

だけどやっぱりほとんど記憶にない。

 

2011年 

Twitterが日本で広く知られるようになったのは、2011年の震災がきっかけだとも聞く。

これはぼくも覚えている。

テレビで何度も流れてくる「Twitter」と「ニコニコ生放送」の文字を見ていた。

世の中の何かが大きく変わっていると感じた。

でもぼくはまだiPhoneも持っていなかった。

 

2012年

ぼくがブログを書き始めたのは2012年。

仕事でブログに関わったこときっかけに、自分でも何か書きたくて始めた。

そのときにようやくTwitterを使い始めた。

ぼくにとって、当時のTwitterの役割はブログ更新の告知だった。

もちろん今話題になっていることを調べたり、タイムラインをラジオ代わりにのぞいたりもしていたけど、そのほとんどの話題はブログに関することだった気がする。

当時、はてなブログで文章を書くのは、絶海の孤島から手紙をガラス瓶に入れて海へと流すような感じで、なかなか他の人に見つけてもらえなかった。

もうその頃にはTwitterは大きなメディアだったから、小さな孤島からのメッセージが他の島につながることを期待して、利用していたように思う。

また、一時期は、すでにつながっているブロガー同士での交流の場としても盛り上がった。

ただ、ぼくも含めて多くの人たちが、そういう遊びをやめてしまった。

ぼくの場合は他にやりたいことができたから。

他の人たちがどうなのかはわからない。

 

現在

Twitterは、今でもブログの更新告知が中心だけど、ブロガー同士の連絡手段としてもまだ使っている。

ただ、そんなに高頻度ではない。

今や、ぼくにとってFacebookTwitterはあまり用途が変わらない。

ただ、ヒマな時についTwitterのタイムラインを見てしまう。

それが最近は本当につまらない。

人の悪口ばかりだ。

いくらタイムラインのお手入れをしていても、なぜか知らない人の罵詈雑言が目に入ってくる。

嫌なら見るなという感じだが、つい見てしまう。

で、うっかり熟読してしまって後悔する。

こんなにも人間というのは他者を攻撃したい生き物なのかと思うと、うんざりする。

もうやめたい。

あるいは、かなり距離を置きたい。

そう思っていたところにこの騒動だ。

これはチャンスだなと思った。

 

ぼくにとってのTwitterとは

こういったことを振り返るに、Twitterというのはぼくにとっては交通手段のようなものだったのかな、と思ったりする。

ローカル沿線の電車に乗っているあいだはみんな自分のペースですごせるし、乗り合わせた人との会話だって楽しむ余裕がある。

でも、ピークタイムの都心の電車は超満員で、みんな不機嫌で、トラブルもたくさん起きる。

乗客は、急に顔の見えない群衆となってしまう。

また、ぼくにとっては交通手段であっても、他の人にとっては社交の場であったり、騒動を起こしてストレスを発散する場であったり、人に危害を与えることを目的とする場であったりする。

さすがにそんな交通機関を安心して利用することはできない。

 

幸い、最近は『週刊はてなブログ』という、はてなブログでの話題を紹介してくれる素晴らしい取り組みもある。

週刊はてなブログ

書いたブログを読んでもらえる手段があるなら、無理にTwitterを使わなくてもいい。

そんな気がしている。

 

他の人はどうだろう。

Twitter、やめますか。

それとも、続けますか。

不調から抜け出してみて、思うこと。

この2週間ほど、心の調子がかなり良くなかった。

理由はいくつかあって、どれもすぐには解決できないことだった。

それぞれ時間をかけてやっていくしかないのだが、早く解決したい、早く楽になりたい、と焦っていた。

 

焦っていると、色んな情報がネガティブな意味を持って聞こえてくる。

上司の話や家族の話、新聞記事やSNSの話題の中の、自分が気にしているポイントばかりが頭に入ってくる。

それで、ああオレはなんてダメなんだ、みんなこんなに努力しているのに、今までずっとサボってきた、そのツケを払わされてるんだ、という気持ちになり、しんどくなってくる。

ああこの辛さから解放されたい、早く逃れたい、と余計に焦るせいで、何をしたらいいかわからなくなり、身動きが取れなくなる。

この繰り返し。

 

今、ちょっとそこから抜け出してきた感じなのだが、どうやって脱出したのか、ちょっと振り返ってみる。

 

脱出のきっかけ

あ、気分が晴れてきたかも、と感じたのは、オンラインの勉強会で、会社以外の人たちと話したとき。

特に何か特別な話をしたわけじゃないのだが、最近自分がちょっと苦労してることを打ち明け合う流れになり、なんだ自分だけじゃないんだ、とホッとした気持ちになった。

あと、いつもすごくちゃんとした方が、珍しく予定を忘れていて、それもホッとさせられた。

そうだ、みんな完璧じゃないんだ。

 

失敗談の投稿

その後、お世話になっている先生が、失敗談を共有してみませんか、とFacebookで呼びかけていたので、以前パスポートの残存有効期限が足りなくて海外出張ができなかった話を投稿してみた。

で、他の投稿を読んでたら、ものすごく大変な目にあった方がいて、いやあこれに比べたらオレはなんと無事に過ごしてきたんだろうと、またホッとさせられた。

そうだ、みんな失敗しながら暮らしているんだ。

 

出社した

そんな状況の中で四日ぶりに会社に行った。

対面で打ち合わせしたり、雑談したりして、さらに気が晴れてきた。

何か具体的な問題が解決したわけではないけど、仕事で気になっていることを他の人たちに話すことができた。

同僚も色々と不安なことや心配なことを抱えてることもわかって、ホッとした。

そうだ、みんな悩んでいるんだ。

 

それで妄想した

やっぱり人と話すのが一番かもしれない、ということを思った。

うまくいかない日が続くと、つい、自分以外の人はちゃんとやれてるのに自分だけができていない、と思うようになってくる。

だけど一人ひとりと話してみると、決してそういうわけじゃないことがわかる。

気持ちをオープンにする機会が少ないのかもしれない。

だったら自分からそういう場を作ったらいいんだ、ということに行き着いた。

よく考えたら今までぼくはそうやって自分から行動を起こしてきた。

なのに、このところ何かを待つような感じで過ごしていた。

小さな頭の中だけで考え、じっと同じ場所をぐるぐる回っていた。

そうだ。自分からつながりにいけばいいんだ。

 

というのは

たった一回のケースなので、これだけで何が言えるのか、という感じだが、少なくともぼくの場合は長いあいだ快適な場所にとどまってじっとしていてもあまり良い方向には向かわない気がする。

それは、これまでの経験からもそう思う。

あくまでぼくの場合、何かを維持する、という考えがあまり合わない気がする。

動きながら考え、考えながら動き、次に進む道を見つけていく。

 

そういうぼくの生き方の文体のようなものを見失わずにやっていくしかないのかな、と思う。

世の中は「変わらなきゃ。」のまま、変わっていない。

「変わらなきゃ。」というキャッチコピーが登場したのが1995年。

これは日産自動車の企業広告。

「変われるって、ドキドキ」というキャッチコピーが生まれたのが2001年で、これはトヨタ自動車カローラのコピー。

就職氷河期のまっただ中の頃だ。

長引く不景気の中で、これまでの仕事のあり方、そして人生のあり方を見直し、変わらなければいけない、という反省や焦りが時代の気分だったのだろう。

それが2007年になってくると「変われ変われの大合唱が耳に五月蝿てしょうがない。」と、「変わらなきゃ」の圧力に対して食傷気味になってくる。

これはサントリーの角瓶のコピー。

そして2020年のサントリーの広告には「時代は変わる。それだけで人間は変わらない。」というキャッチコピー。

ここでもまだ、変わることへの抵抗が続いている。

こうやってキャッチコピーを振り返ると、人生100年時代なんて言われるよりもずっと前から、ぼくらはずいぶん長い間「変わらなきゃ」という空気に振り回され続けているんだなと感じる。

 

 

まあ、よく考えてみれば、というかこれはそんな十数年の話じゃなく、人類はずっと変わり続けてきた。

文明が生まれ、産業革命が起き、民主化運動が進んだ。

人間の生活が変わり続けるのは当然のことで、ただ、そのスピードが速くなってきただけだ。

変わらなければ置いていかれるだけだ。

環境に合わせて変化して適応した者だけが生き残る。

そう、クールに言ってのけることもできないことはない。

 

だけど、今の世の中がぼくたち人間に強いる変化のスピードは、ちょっと速すぎるようにも思う。

まだ若いうちは新しいことの吸収も早いし、変わり続けられる気力と体力がある。

でも、高齢化が進むこの社会で、死ぬまでずっと高速で変化に対応し続けなければいけない、と思うとちょっと気が遠くなる。

氷河期世代のぼくはこれまでもずっと「変わらなきゃ」という圧力と共にあった。

だけど、どこかでちょっとした希望のようなものがあったのだ。

ひょっとしたら、年を取って、どこかのタイミングで、そこまで必死に変わり続けることを努力しなくてもよい時がやってくるかもしれない…と。

ところが世の中は、人生100年時代だ、リカレント教育だ、リスキリングだと、いつまでたっても変わらないでいることを許してくれない。

困ったものだ。

 

 

とまあ、そんなことをぼやいてみたけど、ぼくは変わり続けることを否定しているわけではない。

むしろ自分からすすんで新しいことに挑戦したり、違うことを経験していくことはとても楽しい。

誰でもそうだと思うけど、自分から変わっていけるのであれば、何歳になっても「変われるって、ドキドキ」なのだ。

きっと、学び直しがどうとか言っている人たちも、悪気があるのではなく、そうやって変わり続けていく喜びを浸透させていきたいと純粋に願っているに違いない。

ところが、これを他人から言われるときのあのイラっとする感じといったら。

子どもの頃の、まさに勉強しようとしていた瞬間に「勉強しなさい」と言われて頭に血が上る感じとそっくりだ。

難しい。

「変わらなきゃ。」と人から言われると押しつけであり、抑圧になる。

 

とにかく、氷河期世代はずっと「変わらなきゃ。」と圧力を受け続けてきた世代である。

もうこれ以上、それを他人から言われても、うんざりするだけかもしれない。

それよりも、自分から動き、新しいことにチャレンジすれば、こんなに楽しいことがある、こんなにうれしいことがある、というように上手に釣ってくれたらなあ、と思ったりする。

ぼくらはなんだかんだ言いながら、昭和と平成と令和の時代を生き残り続けてきたのである。

氷の中でも活動を続けられるほど熱いハートの持ち主なのである。

 

うまいこと乗せてほしいものだ。