時代は、変わったのだろうか。

今日はあまりいいことがなかったけど、子どもたちがずっと楽しみにしていた金曜ロードショーの『竜とそばかすの姫』を一緒に観たので、よかった。

そう言えば、ぼくの父は、ぼくが子どもの頃、色んな映画をレンタルしてきて、一緒に観ていた。
当時はインターネットで下馬評をチェックすることもできないので、父の勘だけが頼りである。
面白いものもあったし、ハズレもあった。
なんというか、そういう経験も含めて楽しかった。
果たして、自分はそんな体験を子どもたちにさせられているかな、と思ってしまう。

時代が違う、といえばそうかもしれない。
そんなに努力しなくても、そこそこやっていける、と信じられていた時代だった。
そして途中から、全然そんなことはない、ということがあらわになった時代でもあった。
だけど、それが今とそんなに大きく違うだろうか。
もちろん違うといえば、全然違う。
だけど、人から聞いた話とか、何かに書いている情報とかを一度忘れて、自分の肌感覚としてどうだろう。

あの頃も、別に楽しいことばかりではなかった。
退屈な時間もたくさんあったし、腹が立ってしかたないこともいっぱいあった。
特に中学生の頃は荒れていて、ドロドロとした自分の感情をぶつける場所がなくて、爆弾を抱えてうろうろしているような感じだった。
それが良いとか悪いとか、そういうことではない。
時代が違っていても、人が大人になっていくプロセスはそんなに簡単なものじゃなく、世の中にあふれているなんちゃらメソッドとか、なんたら教育とか、そんな小手先の情報なんて役に立たないような気がする。
一人の人間として、子ども一人一人に、全力で組み合って、一緒に育っていくしかないような気がする。
それが唯一の正解なんてまったく思わない。
それが、ぼくにとってのイメージだというだけだ。

どうせぼくはアホなのだ。
無理に難しいことを考えてみたって、結局その本質的なことは理解できやしない。
それよりも、手を動かして、失敗して、ほんのちょっとずつ進んでいくほうが向いているのだ。
色々とやってみるしかない。

いつも、進む道は目の前にある。
立ち止まって、眉間にしわを寄せていても何もはじまらない。
ぼくは、ぼくの道を行けばよい。

それが長いこと生きてきて知った、ほんのわずかなことの一つなのだろう。

ひかれるような、髪はない。

今日は、散髪をすることができた。

 

もう少しほっといてもよかったんだが、思い立ったときに行っておく、というのが散髪についてのぼくのルールである。

そうでないと切るタイミングを失って、ボサボサになって、それが気になって仕方がなくなるからだ。

 

ぼくの散髪はとても楽だ。

上の部分以外はほぼ坊主なので、注文も簡単。

どこの店で切っても、ほとんど変わらない。
だから理想の散髪屋が見つからず難民に…なんてことにはならない。

手入れも楽だ。

短いからシャンプーだけでよい。

髪はドライヤーを使わなくても一瞬で乾く。

 

最近は若い人たちと仕事をする機会が多いのだけど、短髪の男性は少ない気がする。

男性も女性も髪を丁寧に手入れをしている人が多い。

なんて他人事だけど、ぼくも若い頃は髪は長くて、パーマをあてたり、染めたり、変わったヘアスタイルに挑戦したり、色々やっていた。

当時はキムタクさんの影響もあり、男性にも長髪ブームが来ていた。

ぼくも流行にあやかって髪を伸ばしていたのに、なぜか安室奈美恵さんに似ていると言われ、アムラーと呼ばれた。

これは本来の「アムラー」の用法ではない。

 

ぼくが短髪にするようになったのは、たしか上の子どもが生まれてから、あるいはそれよりもちょっと前か、とにかくそのあたりだったと思う。

なんというか、育児というのは女性もそうだが男性の価値観も大きく変えてしまうものだと実感する。

特に子どもが小さいあいだは、いつも非常事態である。

たとえ熟睡している真夜中でも、子どもが熱を出せば、さっと起きて病院に連れて行けるようにしておかないといけないし、なかなか子どもが寝つかないので風呂に入るのを我慢して一緒に横になっているうちにそのまま朝まで寝てしまったりもする。

とにかく自分の身なりを気にしている余裕なんてないのだ。

そういう状況では、短髪というのは非常に機能的なのである。

 

とまあ、何を偉そうに言っているのかよくわからないけど、そのあたりから、ぼくは自分の身なりについてとか、時間の使い方についてとか、大事にするものについてとか、色んなものが変わっていったなあと思う。

そしてそれは、自分だけでは経験できない、とても貴重なものだとも思う。

ほんとに、ありがたいことだ。

 

ま、いまや髪の量自体が減ってきて、伸ばすほども残っていないので、結果的には早めに坊主頭にしておいてよかったな、なんて思っているのは内緒であるが。

涼しいのが、お好き。

今日は、とにかく涼しくて、よかった。

 

仕事の合間に軽く床掃除をしたり、ちょっとストレッチをしたりしても、汗をかかない。

いつもより集中力も出るみたいで、いくつもの仕事を一気に終わらせることもできた。

いいアイデアも思いつけた。

いい一日だった。

 

どの季節も好きだが、やっぱり秋が一番好きだ。

しかし秋はすごく短い。

せっかく9月になっても、夏が居座っている期間か長いので、実際は10月と11月しかない印象がある。

ぼくは汗をよくかくので、長袖を着るタイミングが難しい。

今日はちょっとひんやりするかな、と思ってうれしくなって長袖のシャツを来ていくと、汗でぐっしょりになる。

 

そういえば以前、自分はどのくらいの期間、半袖でいるのかを数えてみたことがある。
そうすると、5月の連休を過ぎたあたりから半袖を着はじめて、9月いっぱいまでほとんど半袖だったことがわかった(ただし、仕事用に薄手のジャケットはいつも持ち歩いている。が、あまり着ない)。

ぼくは実に5ヵ月間ほど、半袖ですごしているのだ。

あとは長袖のシャツ一枚ですごすのが10月と4月。

さらに何かを羽織ってすごすのが11月と12月と3月。

ちゃんとコートを着るのが1月と2月。

あと、軽い筋トレをするようになってから寒さに強くなってきたので、ダウンジャケットはめったに着ない。

となると、今後は半袖のTシャツやポロシャツ以外を買う機会はもっと減っていきそうだ。

 

服装で言うと、ここまで働く人の服装がカジュアルになったことって、サラリーマンの歴史的には、はじめてなんじゃないだろうか。

ぼくは仕事柄、服装は自由で、必要なときだけネクタイをする、という感じなのだが、特に若い頃は、そういうスタイルで仕事できる職場は他にはほとんどなかったように思う。
クリエイターは服装が自由だからうらやましい、と他の若い人たちから言われたことは何度もあったし、そう思われて悪い気はしなかった。

でも今は、別にクリエイターでなくてもTシャツ一枚で仕事ができる場面が増えているし、とにかくいい時代になったと思う。

よく言っているが、基本的に世の中はどんどんよくなっているように思う。

自由な服装というのもそのひとつだろう。

 

自由、というのは、ぼくがずっと大事にしていることのように思う。

普段はそんなに強く意識していないけど、人から言われることは多い。

君って自由だよね、というのは悪口としても機能するのだが、まあそういうのも含めて、よく言われる。

でもあらためて、自分が大事にしている「自由」とは一体なんだろう、と思うに、それは服装や見た目など自己表現における自由、というのもあるけれども、それ以上に自分がこだわっていること、気になっていることを存分に追求できるか、ということが大事なのだと思う。

よく「やりたいことがなくて困っている」という話を聞く。

それに対して「やりたいことなんかなくてもいいんだよ」と言っている場面も目にする。

ぼくは実はこれがよくわからない。

いや、頭ではよくわかるし、そういうこともあるだろうと想像もできる。

ただ、ぼく自身はいつも「やりたいこと」がある。

たぶん、なかったことがない。

いや、それは嘘か。

なかったこともあるけど、その場合は必死に次の「やりたいこと」を探していた。

そのせいで色々と血迷ったこともあるけど。

人に強制するつもりもないし、「やりたいこと」がない人はダメだなんて言うつもりはまったくない。

とにかくぼく自身はいつも「やりたいこと」を作り、それに向けて進んでいく、ということをずっと繰り返してきてるよなあ、と感じる。

そして、そういう繰り返しを自分の意志でやっていけること。

それがぼくにとっての「自由」なのかもしれないな、と思った。

 

涼しくてすごしやすいと、色々と書きたいことも出てくるもんだな。

やっぱり、秋が好き。