本当に、勇気を出すべき場面とは。

 

 

 

やったことのないことに取り組むというのは、そんなにむずかしいことではない。

 

 

やったことがないのだから失敗して当然なのだし、うまくいったら儲けもん。

正解も不正解もないわけで、何をしてもいいからである。

他の人がどうかは知らないが、ぼくはそういう状況がけっこう好きで、普段から誰もやっていなさそうなことにばかり首を突っ込んでいるように思うし、実際にそんな場面のほうが得られることがたくさんある。

誰も手をつけていないのだから、お宝が眠っていることもあるのだ。

まあほとんどの場合は、何も得られないのだが。

 

 

それで、本当にむずかしいのは、実際は誰もやったことがなかったり、自信がなかったりすることに直面したときに、いや、これはきっと他の人にとっては初めてのことではないのだ、とか、周りの人はこれぐらいできて当たり前だと思っているのだ、とか自分で思いこんでしまっているときだと思う。

これは特に、リーダーとか、先導者とか、発起人みたいな人たちがいて、そういう人たちが先頭に立っている場合に起こりやすい気がする。

リーダーが、はじめての状況に直面したときに「これは自分も今までに出くわしたことのない状況なのでどうなるのかわからないけど、やれるだけやってみよう」とはっきり言えるかどうかはすごく大事である。

この一言を聞くだけで周りの人たちは、ほっと安心する。

じゃあ正解なんてないのだから色々試してみよう、と思えるようになる。

 

 

厄介なのはそうじゃないとき、つまりリーダーがそういったことを開示せず、まるで自分だけは正解を知っているような言動を取る場合である。

その正解が本当に正しいかどうかが問題なのではない。

まるで正解があるような空気が一度できてしまうと、周りのみんなはその正解を外すまいと空気を読み合いはじめてしまう。

そのうち、他にも、俺はあの正解を知っているとか、私もリーダーの言っていることが理解できるとか言い出す人が出てくると、もう大変だ。

誰もが存在するはずもない正解を気にするあまり自由な発想と行動ができなくなり、このグループやチームの活動は停滞する。

おまけのその停滞の原因を、あるはずもない正解を見つけられない人のせいにして、本当の理由がわからないままになったりする。

 

 

 

これは、ぼく自身がやってしまいがちなことである。

正解を知っているような言動をすることも、その正解を読もうと必死になることも、その正解がさっぱりわからなくて悩み苦しむことも、どれも経験してきたように思う。

だからこそ、今あらためて、やったことがないこと、よくわからないことを隠してはいけない、と強く感じている。

もちろん、はっきりと言ったせいで干されることもあるかもしれないし、バカにされることもあるだろう。

だけど、はっきり言わなかったせいで起こる、そのあとの惨劇を考えると、やっぱり開示しなきゃいけないだろう。

 

「いやあこれはほんま誰もやったことがないから、正解も何もわからん話やねんで」

そう言えるように心がけたい。

 

 

 

勇気というのは、そういうときに発揮されるものかもしれない。

ふまじめな、おまじない。

 

 

ブログを書きはじめた頃、ぼくが抱えていた悩みは、このめまぐるしく変わりゆく世界の中でどのように自分らしさを保てばいいのか、といったことだった。

 

 

 

それからも色んなことが変わっていったし、特にこの1年でそのスピードは増した。

特に、離れている人とオンラインで話をすることが当たり前になったのはとても大きな変化で、おかげでわざわざ遠くまで出かけなくても共通の関心を持つ人と話がしやすくなった。

もちろん、実は仲良くなれるはずの人と偶然出会う、という機会は減ったように思うが、それは別に以前からそうだった気がする。

人は何かが変わったとき、そのせいで失われたものを数えがちだが、いざ数えてみると思っていたほどたくさんのものを失ってはいなかったりする。

ぼくに限っていえば、得たもののほうが多いと思う。

何よりも、ぼくはこのブログを書きはじめた頃からずっと、自分が色んなものを失い続ける様子を見つめ続けてきて、もうたいしたものは残ってないぞという状態だったので、これ以上何かが変わったところでそれがどうした、という印象だった。

むしろ変わっていく自分の生活を楽しんでいる。

そういう意味で、ぼくは悩み続けてきたことに対して、自分なりの答えを出せているのだと思う。

 

 

世界が正気、いや狂気を取り戻していく中で、古い呪いがまた復活してきているようにも感じる。

変化に対応できない奴はダメだとか、ライバルはもっと努力しているぞとか、考えをアップデートしないなら置いていかれるぞとか、そういった類いの古めかしい呪いたちだ。

この手の呪いは人の不安につけこんで、すっと関心事の真ん中に入りこみ、その不安をさらに大きく育て、自分たちの養分とする。

それはある程度なら生きるために必要な場合も多いけれど、増えすぎてしまうとぼくらはすっかり不安の虜となり、疲れきってしまう。

 

だけど、彼らを追い払う方法はある。

それは不真面目になることである。

真面目になんでもかんでも受け止めて、深刻に考えるから不安というものは大きくなる。

呪いにとっての大好物は、論理である。

人が自分の思考を論理的だと思っていればいるほど、不安の呪いは強力に脳内に組み込まれ、抜け出しにくいものになる。

反対に、チャランポランになって、楽しいことやバカバカしいことを考えたり実行したりしていると、うまく論理による不安の増幅が進まないので、養分が足りなくなった呪いは餓死してしまうのである。

 

 

それで話を最初に戻すけれども、このどうしようもない、絶えず変化をし続ける世界の中で、ぼくはどうやって自分らしさを保てばいいのか、という問いについて今自分なりに答えるならば、自分らしさを保とうとすることをやめたらいい、ということになるかもしれない。

いずれにせよ、これだけ長く生き続けてきたのだから、嫌でもなんらかの個性というものは表出してしまうし、変えたくても変えられない部分というのは残ってしまう。

それ以上に何かを守ろうとするのではなく、肩の力を抜いて、頭の中はチャランポランにして、変化の波に身体を浮かべ、気持ちよく漂っていればいい。

そのうちに行きたい島が見えてくるかもしれないし、海の中に面白いものが見つかるかもしれないし、また新しい波がやってきてどこか遠くへと連れていってもらえるかもしれない。

どっちにしたって、ぼくらはもうとっくの昔に見知らぬ世界へと放り出されているのだ。

 

難しいことばかり考えていても、何もはじまらない。

「何者問題」と、ハッピーエンド。

シロクマ先生(id:p_shirokuma)の新著『何者かになりたい』(イーストプレス,2021)をきっかけに、「何者かになる」あるいはアイデンティティに関する文章がいくつも書かれていて、面白い。



特に、池田仮名さん(id:bulldra)のこんな文章が印象的だった。

『令和元年のテロリズム』の読書会において、「強制スクロール」という言葉が話題になった。学校があって就職があって昇進があって結婚があって育児があって、それぞれの困難とそれを乗り越えるための成長や価値観のアップデートが求められていくのが人間社会なのだけど、どこかで任意スクロールに転じやすくなったのが現代である。

若い女性にアタックし続けるおじさんは価値観の任意スクロールと年齢の強制スクロールに挟まれたなれ果て - 太陽がまぶしかったから

仮名さんは「何者かになる」という文脈ではなく、大人になると自分の価値観のアップデートを社会から求められていく、ということについて書いている。
だが、このことは、ぼくのような中年にとっての「何者問題」と密接に関係しているように思った。

ぼくも若い頃は「何者問題」についてずっと悩んでいて、それはコピーライターになれば解決できるのかと思ったがそんな簡単な話ではなく、では大きな賞を取ったり有名になればいいのかと考えたがこれはとても困難で、じゃあいっそのことそういったアイデンティティ獲得競争から降りてしまえばいいのだと試してみたが、そんな簡単に解放してはもらえなかった。

ぼくがいま一時的に「何者問題」から離れることができているのは、おそらく自分自身のことばかりかまっていられないから、というのが本音のような気がする。
子どもは日々色んな種類の問題を持ち込んでくるし、これに対応しているうちに今度は仕事で新たな事件が勃発する。
あるいはぼくよりもずっと若い人たちが、自分の「何者問題」について相談にやってくる。
いや、俺だってそれについて解決できてないんだけど…なんて言うのがはばかれるくらい若い人たちだ。
ぼくはそうやって、限定的に、この難しいテーマから目を背けているだけだと思う。

それはまさに仮名さんが言う「強制スクロール」の恩恵を受けているわけだが、しかしそれは「強制」的なものであって、よしオレはもう「何者問題」を解決したから次に行くぞ、という「任意スクロール」ではない。
だから、どうせそのうち、また対峙せざるをえないのだろうなとあきらめたりしている。
今よりもさらに年を取って、家族から、社会からもすっかり見放されたとき、ぼくは必ずこの「何者問題」に再びぶつかるだろうし、その時は、可能性に満ちた若い頃と違って選択肢はほとんど残っていないだろう。
ただ地味に、ついに「何者」にもなれずに人生を終えていくことを受け入れるのか、受け入れない(ということが一体何を指すのかはまだよくわからない)のか、その間で悶々とし続けるしかないのだろう。
そう考えると、ほとんどの人は「強制」であろうが「任意」であろうが、生きているあいだはずっと自分の価値観を見直したり、これで本当にいいのだろうかと逡巡したりし続けるしかないのだろう。

シロクマ先生も新著の中で、こう書いている。

 ここまで読み、人間の一生の儚さ、せっかく思春期に頑張って寄り集めた自分自身の構成要素とアイデンティティの行く末に悲観的になった方もいらっしゃるかもしれません。
 まあ、この点については、「しかたがないじゃないですか?」と私は言ってみたいです。もともと人間とは生まれてから死ぬまで変化し続けていくもので、どこまでも変わり続けていくものなのですから。

このことを、ぼくは理屈ではなく、自分のこれまでの人生を振り返って、やっぱりそうなんだろうなあと感じる。

スクロール、というゲーム用語が出てきたので、昔『ファイナルファンタジータクティクス』をプレイしていたときのことを思い出した。
このゲームには、さまざまな魅力的な人物が登場する。
彼らはそれぞれ「ホーリーナイト」とか「アークナイト」とか「剣聖」とか、固有の肩書を持っていて、それに見合ったかっこいい特技を持っている。
ところが主人公はそういった特別な職業になることが全くできないのである。
もちろんその代わりに、誰でもジョブチェンジできるような職業なら、修行を積むことで全てマスターすることができるのだが、それではキャラクターとしての個性は発揮できず、彼は「何者」にもなれないままなのだ。
おまけに彼の存在は後世の歴史の中で全く語られることはなく、その功績を称えられることもない。
ぼくはこのゲームをクリアしたとき、なんてモヤモヤさせられるのだろうと思った。
これじゃ完全にバッドエンドじゃないかとも思った。

でも考えてみるに、この主人公が取り組んできた大小の冒険の数々は、他の特別な登場人物たちには経験できなかった、かけがえのないものなのだ。
彼らが固有の職業を手に入れ、その特別なスキルを磨いている時間の中で、主人公は広い世界を旅し、さまざまな仲間と出会い、たくさんの小さな物語を残していった。
そういう意味で、彼は幸福だったのだ。

これはまあ、ぼくのこれまでの人生と同じじゃないかな、と思う(そんなすごい経験をしてきたわけじゃないけど)。

「何者かになる」というのは、年を取っても完全に自由になることができない厄介な問題だが、世の中の色んなことに好奇心を持ち、これからも面白いことを経験したいと思う人間にとっては、若干優先順位が下がるテーマなのかもしれない。

まあどっちが大事なのか、ということに答えはないけれども。