やる気が出ないときは、どうすればいいのか。

 

 

 

チェコ好きさん(id:aniram-czech)の記事、とてもおもしろかった。

常に体調が悪い、やる気はない、他人に邪魔をされて頭はぼんやり…クリエイティブな女性著名人たちもみんな同じだった-AM

 

 

 

若い頃は、うおおおお今日はやるぞおおおという、自分で感じることができる気持ちのたかぶりのようなものがあって、その状態をどれだけ続けられるか、がすごく大事だった。

だけど年を取ると、そもそも体調がものすごく良い、という日がほとんどない。

体調が良くないと、当然ながらやる気も出ない。

それでも最近までは、それにあらがって、無理にやる気を出そうとしていたのだが、どうもそれは違うのではないかと思いはじめていたところだった。

残念ながらわれわれは年を取るのであり、体調はどんどん悪くなるのであり、やる気がそれにつれて徐々に失われていくのである。

若い頃、年を取ったおじさんたちがなんであんなにやる気がないのだろうと憤りを感じていたけれども、彼らだってそうなりたくてなったわけではないのだ。

 

となると考えるのは、では基本的にやる気が出ない状態でもまずまずのパフォーマンスを発揮するにはどうすればよいか、ということである。

 

まず思うのは、やる気の有無で左右されやすいものを減らすということである。

恥ずかしながらぼくの仕事は主にアイデアに関わるものなので、やはりある程度のやる気が必要だ。

また、相手のアイデアを聞き、自分も考え、これを組み合わせたりする作業はとても楽しくて、この作業をしたいがために働いているようなものだが、かなり集中力を使ってしまっているようで、終わったあとにかなり疲れてしまう。

この作業自体を減らすことはしたくないが、もう少し楽にできないかと考えるに、そのひとつの答えは仕事を一人で抱えない、ということだろう。

この点についてはかなり前から気づいていて、いまはほとんどの仕事は誰かと一緒にやることにしている。

若い頃は「おいしい仕事の奪い合い」という、非常につまらない(が本人にとっては深刻な)問題があって、どうしても見つけた仕事を抱えこむクセがついていた。

残念ながらいまは、おいしい仕事なんて道端には落ちてないから、自分たちで作るしかないし、それは一人ではどうにもならないので、まあ必然的に抱えこむことも減るし、自分でも持っている仕事は積極的に周りの人たちに手伝ってもらう。

もちろん、そのぶんぼくも相手の仕事を、それがいかにくだらないことであっても手伝う。

書いてみると小学生でもわかる基本的なことだが、これがずっとできていなかった。

まあとにかく、そうやって、それがいかに自分がやりたいことであっても、抱えこまずに誰かと一緒にやることが大事だと思う。

それによって、じゅうぶんにやる気が発生しない場合でも、著しくパフォーマンスが落ちるというリスクはだいぶ低減できる。

 

さて、問題は、もともとやりたくないことや苦手なことへの対処である。

こういう事柄についてはかなりのやる気が起きないと取り組めないし、じゅうぶんにやる気がみなぎっているときであっても、なかなか難しかったりする。

ひとつの解決方法としては、それが他人からもたらされる場合は、できるだけ引き受けない、ということだ。

正面から断れる場合もあれば、上手に断らないといけない場合もあるけれども、これは意外と成功することが多い。

なぜなら、ぼくらは膨大な体力とやる気の喪失と引き換えに、年齢というものを手に入れているからである。

年を取ると、ああこんなおっさんに頭下げて頼むのは面倒だなとか、どうせたいした成果を出せないだろうとか、相手からあきらめられるケースが増える。

どっちみち、ぼくでなくてもできる仕事を頼んできているのだ。

もっと気軽に引き受けてくれて、仕事も早い若手にチャンスを提供するのも自分の役割だと勝手に思っている。

 

さて、もうひとつ、もっと良い方法があって、それはなんのやる気もない状態で、とりあえず手をつけてみることである。

コツがある気がする。

まず、頭を使わない。

手や足や腹や腰や、なんでもいいから体を動かす。

心の中は無である。

ゆっくりと自分のペースで体を動かしていると、少しずつ気分がよくなってきて、次第に頭も働きはじめ、ちょっとした工夫をしてみたくなり、気がつくと終わっていたりする。

これには色んな理由があると思うし、その理由のほとんどはわからないけれども、どうも頭を先に使いはじめると、頭は勝手に先のことを考えはじめるからではないだろうか。

先のことを考えるのは大事なのだが、やりたくないことや苦手なことの場合、それをやった際に感じるであろう苦痛や、その苦痛に対して得られる成果の小ささばかりが強調される気がする。

その結果、頭が全身に対して、やめとけやめとけ、という号令を出してしまうのだ。

それは別に年齢と関係なく誰もが体験していることだろうけれども、年を取ると経験が増えるだけに、いくらやっても苦痛が残るだけだったというフィードバックが蓄積され、余計に何事もおっくうになるのかもしれない。

だからこそ、文句ばっかり言って自分ではなにもしない頭脳のことなんて一度忘れて、ただ体だけを動かしてみる、というのが解決になることも多いように思う。

 

さてそうなると、別にやる気がなくたって何でもできるじゃないかと言われそうだが、冒頭に言ったように、基本的にはいつも体調が悪くてじゅうぶんなパフォーマンスを発揮できず、余命だって若い人よりもずっと少ない状態なのである。

ぼくだって残された人生を大事に使いたい。

そこで重要になってくるのが、優先順位だろう。

ぼくの優先順位は決まっていて、まずは妻の言うことが一番大事であり、次が子どもたちであり、次に自分のやりたいことである。

じゃあ仕事はどうなるのかというと、これは自分のやりたいこととの等価交換というか、やりたいことを気持ちよくやるために汗をかいているだけである。

そこにあんまり難しい切り分けはない。

とにかくその順番に自分の体を使う。

 

そう考えると別に人生においてやる気なんて必要でもなんでもないような気がする。

自分なりに大事にしているものがあって、それをいつだって大切にし、まあときにはどっちを優先するべきか迷ったり、理不尽なできごとに苦しんだりしながら、だけどなんとなくすべてが心地よくいくように生きていけばいいように思う。

 

そもそも、やる気とはなんだろうか。

それは、よしこれをやるぞ、これをやるためなら他のことが多少失われたとしたって、やり抜いてみせるぞ、という決断のことではないだろうか。

もし、ぼくらが何が大事なのかがはっきりわかっていれば、わざわざやる気なんて持ち出さなくたって、勝手に色んな判断がなされていき、自分が望む方向へと物事は進んでいっているのではないだろうか。

だとしたら、短期的な視点で自分は今やる気があるとかないとかいうことに一喜一憂することなんてやめて、じっくりとやっていけばいい。

 

 

それが年を取った人間の唯一の特権なのだから。

すべてを抱いて、消えていく。



年を取ってよかったなと思えることのひとつは、当たり前だけれども、思い出がたくさんあることだ。



その中で、このところずっと思い出されるのは、妻と上の子(まだ1歳になっていなかった)とバリ島に行ったときのことだ。
ホテルまで送ってくれるバスの中で、運転手が簡単にバリの案内をしてくれた。

バリはインドネシアの多くの地域と違って、ヒンドゥー教を信仰している人が多いです。
ヒンドゥー教はバランスが重要な宗教です。
善と悪も、なにもかも、バランス。
どっちも必要。
そのバランスを保つことが大事。

ぼくはこれを聞いて、なんだかほっとする考えだなあと思った。
当時のぼくはまだ、自分の仕事や生き方について絶対的な答えを探していたように思う。
クリエイターとして成功するにはどうしたらいいのか。
人生の勝者になるためには何をすればいいのか。
そんなときに、善と悪、成功と失敗、栄光と挫折、幸せと不幸せ、生と死、どちらも受け入れて生きていくという考え方が、妙に印象に残った。

だからといって、そこから何かが大きく変わったわけではない。
どちらも大事、なんて甘い考えで仕事をしていたら、すぐに競争からはじきとばされてしまう。
こっちが大事だと即決し、敵と味方を明確にし、正しい行動とそうでない行動を区別しなければ、やられてしまう。
そう思いこんでいたし、周りもそういう態度をぼくに期待していたように思う。
というとずいぶん昔のことのようだけど、今だって、同じようなものだ。
ぼくが従事してきた仕事の背景に、そういった考えがずっと根を張り、多くの人がそれを当たり前のこととして働いてきた。

今になってバリ島のことが思い出されるのがなぜなのかはよくわからないが、どうもあの時に感じた、そうだよな、人間って善でも悪でもない、両方を抱えて生きている存在だよな、という思いが、またよみがえってきているようだ。
自分自身と身の回りに起こったことをすべて受けいれて、それらを肯定し、バランスを取りながら生きていく、そういう人生のとらえかたに、あらためて魅力を感じているように思う。
理由はよくわからない。
あれから年を取ったし、家族も増えたし、仕事の中身も大きく変わったし、色んなできごとがあった。
だけどそんなに大した変化があったわけではないようにも思う。

おそらくぼくは、もうずっと昔から、そのことに気づいていたのだ。
人生には、正解なんて存在せず、死ぬまでに経験したことの総和があるだけで、それもいずれはあとかたもなく消えていくだけだということ。
それを、この混沌とした世界の中で、あらためて確認しているだけなのだ。
もちろん、だからといってすべてが空しい、なんてことはまったく思わない。
いや、すべてが空しいからこそ、すべてが愛しい。
生きることのすべてが、なんて豊かで、なんてみずみずしいのだろうと思う。

そういえば、バリ島から帰って、少しだけヒンドゥー教について調べてみたけれども、バランスが大事、なんてことはどこにも書いていなかった。
今ちょっと調べなおしてみたら、どうもバリ島で独自の発展をとげた教義のようだ。
あの時にバリに行かなければ、触れることがなかったのかもしれない。

そういうことも、年を取ってよかったなと思えることのひとつだ。

誰にも、尊敬されない人生。



「クソみたいな仕事」について書かれている本が話題になっているようだ。



考えてみるに、ぼくはこれまでひとつも人命を救うような仕事もしたこともなければ、世の中から感謝される仕事もしたことがないし、自分がやらなければ誰かが困るなんて仕事もしたことがない。
サラリーマンは常に替えがきく存在であって、自分がいなくなっても現場が回るように環境を整えて、そっと退場するところまでが仕事なのである。

若い頃はそういうのが耐えられなくて、生まれてきたからにはすごいことを成し遂げたい、世の中をあっと言わせてやるんだという気持ちが強くて、それがあまりに強かったので、現実とのギャップにすごく苦しんでいた。
そうやって年を取る中で、つまらない仕事、かっこわるい仕事、恥ずかしい仕事もたくさん経験した。
今でも、特に同年代で世の中からたくさん尊敬される仕事をしている人と出会うと、とてもうらやましく感じる。

だけど、自分の仕事を「クソみたいな仕事」とはできるだけ言いたくないな、と思う。
ぼくにとって仕事とはすべてである。
会社で働いているときも、家族といるときも、ブログを書いているときも、ぜんぶ仕事だと思っている。
一生働き続けて、ああもうじゅうぶん働いたから、最後くらいはゆっくりしたい、と思いながら死んでいきたい。
そのときに、これまでのことを振り返りながら、あああれは「クソみたいな仕事」だったなあ、いやどれもこれも「クソみたいな仕事」だったよなあ、と思いながら消えていくのはちょっと気分がよろしくない。

だから、ぼくは世の中から「クソみたいな仕事」がなくなっていくことには大賛成だ。
みんなが自分の仕事を愛し、そんな自分の仕事をとおしてかかわり続けるこの世界を愛するならば、きっと世の中はもっともっと素敵なものになるだろう。

結局は愛なんだと思う。
自分の仕事だけじゃなく、相手の仕事や、まだ見ぬ人の仕事を「クソみたいな仕事」なんてけなすのではなく、誰かが自分の代わりに何かをやってくれていることを喜び、うれしく思うこと。
これからの人生は、そういうことを見つめていきたいと思う。

仕事が「いい仕事」「やりがいのある仕事」「人から尊敬される仕事」である必要はない。
そんなことばっかり考えていたら身動きが取れない。
愛のために生きていたら、そりゃあ「クソみたいな仕事」だってやらないといけないこともあるだろう。
だけど、それを外から見て「クソみたいな仕事だ」なんてけなすのはやっぱりおかしい。
まして、自分自身の仕事であればなおさらである。

ぼくは、ぼくにとって唯一無二のかけがえのない存在なのだ。



そんな存在がやることに「クソみたいな」ことなんてひとつもない。