娑婆に出てみて、気づいたこと。



金曜日、久しぶりに出社した。



在宅勤務を続けてみて、色んな発見があった。
そのほとんどはすごく前向きなものだった。
なんだワークショップだってオンラインでできるんだとか、お互いの感じていることを素直に打ち明けあうことだってできるんだとか、仕事に集中できる時間が限られているおかげで逆に集中力が高まって、ものすごくスピードを上げられるんだとか、まあ他にも色んな発見があったが、だいたい良いことばかりだった。

一方で、じゃあ出社することの意味ってなんだろう、という風にちょっと思い始めていたところだったので、ちょうどいい機会だった。
それで気づいたこと。

まず、人がめっちゃ多い。
会社だけでなく、会社に行くまでに大量の人とすれちがう。
正確には、大量の人間の肉体とすれちがう。
これがなかなか迫力があった。
こんな状況に毎日さらされていたら、そりゃあ気合い入れて歩かないと吹き飛ばされそうになるし、帰宅したらヘトヘトになるよな、と思った。

それから、物事が進むスピードが異様に遅い。
在宅勤務だったら、グループチャットでみんなから意見を集い、さっとまとめてしまえば済むような話を、おっさんたちが難しそうな顔をしてウンウンうなりながら、ずっとためこんでいて、なかなかボールを離さない。
ようやく何か決まったと思ったら、それを上に確認しなくちゃいけないから待ってくれといって、そこからしばらくただ待つだけの時間がすぎていく。
そうか、自分はこういう時間の使い方をしていたんだなと思ったし、そりゃあやりたい仕事も進まないよなとも思った。

そして、居心地が良すぎる。
誰も横から、ちょっとボール遊びをしようよと誘ってこないし、お昼の時間が差し迫ってきても、そろそろ食事の用意をしなくてはとソワソワしなくてもいいし、気が済むまで仕事だけをしていればいい。
椅子も、自宅のものと違って、ずっと座っていても疲れないような造りになっているし、机も広いし、パソコンの動きも早い。
ちょっとパソコンの画面じゃ字が小さくて見づらいなと思ったら、最新のレーザープリンタでペラっと印刷すれば、こりゃ楽だ、楽だ。
そりゃ帰宅する時間が遅くなるよなと思った。

ぼくはこういう、たくさんの生身の人間がいて、物事の進むスピードが以上に遅く、居心地の良すぎる環境の中で仕事をしてきたのだ。
それがわかっただけでも、出社してよかったなと思った。

その日は、割と出社予定の人間が多かったらしく、あんまり混雑する状況は避けてね、という連絡が来ていたので、会社でしかできない事務作業だけをすませて、昼には帰宅した。
そこから上の子と一緒に、妻が用意してくれていた昼食をとって、残りの仕事を家でやったら、夕方までにすべて済ませることができた。
妻が珍しくお酒を買って帰ってきたので、味見させてもらって(肝臓が良くないので外で飲むのはやめた)ちょっと幸せな気持ちになった。
子どもを寝かしつけたあと、少しだけ本を読んでから眠った。

しばらくのあいだ、会社に行くのは時々でいいや、と思った。

世界に、ハローと言う。

 

 

 

わが家ではなぜかビートルズが流行っている。

 

 

 

きっかけは、上の子と一緒に、村上春樹さんがDJをつとめる『村上RADIO』を聴いているときに、ビートルズの特集をしている回があったことで、それからぼくの持っているCDを引っ張り出してちょっと聴いてみたら、なぜか下の子も気に入ってしまって、以来、風呂でも大声で歌っている。

今週は下の子も小学校に何度か登校したのだが、その帰り道にもビートルズの曲を口ずさんでいて、一緒に帰ってくださっている先生に、なんでそんな歌知ってるの?とびっくりされていた。

『村上RADIO』のおかげで、久しぶりに色んな音楽を聴くことができた。

村上さんの文章には、読むと自分もつい文章を書きたくなってしまうような力があるが、彼が選ぶ音楽にもやっぱり、おおこれなら俺もいい曲を知ってるぞ、と言いたくなってしまうような力がある。

 

最近は、たくさんの若い人たちと話す機会があって、そこで彼らの、世の中を少しでも楽しいものにしたいという気持ちがこめられたアイデアたちに触れて、とても元気をもらった。

不要不急の逆襲がはじまるぞ、と思った。

そりゃまあ医療やエネルギーなど誰がどう見ても必要なものを提供している人は、自分のやってることが正しいかどうかを疑うこともないかもしれないけど、そうじゃない人間は、そもそも自分のやってることが不要不急なことだという前提に立たざるをえない。

極端にいえば、自分が世の中に必要とされていないことを知っていて、それでも生きていかないといけないことを自覚せざるをえない。

だけど、それを承知の上で、自分たちの存在意義をああでもないこうでもないと試行錯誤しながら作っていくしかない。

 

ハートは強くなくちゃいけない。

自分のやっていることをバカにされたり、不要不急のレッテルを貼られたって、どこ吹く風と笑いとばし、この世に生まれてきた意味を全身全霊で作っていける、強いハートが必要だ。

だけどそのハートは同時にとってもやわらかくて、他の人たちのハートに共鳴し、ときには熱い思いに影響を受け、ときには嫉妬の炎に焼かれ、それでもやっぱりやわらかく、いろんな人のいろんな気持ちをそっと感じ取れるようにしておかなくちゃいけない。

ひょっとしたら、何か他にも大切なことを忘れているような気もするが、今はまだ思い出せずにいる。

でもまた思い出すだろう。

 

村上春樹さんはラジオ番組の中で、"You've Got To Hide Your Love Away"の邦題が『悲しみはぶっとばせ』となっていることに触れ、そうか、ビートルズは色んなものを片っ端からぶっとばしていたんですね、と言っていた。

ビートルズの音楽は、別に破壊的でも攻撃的でもなくて、誰にでも聴きやすく、楽しくて、やさしい。

とても、世界を片っ端からぶっとばしてきたようには思えない。

だけど、きっと世の中をすっかり変えてしまうようなものというのは、そういうものなのだろう。

 

世の中は、いま何とか元の形に戻ろうと必死になっているように見える。

そして時間の経過とともに、少しずつ、人々は以前のような暮らしへと戻り、まるで何事もなかったかのように毎日を送るようになるだろう。

それでも実際は、色んなものが、元に戻ることなく、ぶっとばされっぱなしになるのかもしれない。

リモートワークを余儀なくされた結果、満員電車の中で窒息しそうになりながら通勤しなくてもいいんだと気づいたこと。

休校になった子どもたちと一緒に家に押し込められたことで、そもそも学校って何のために行くんだろなと疑問を持ったこと。

自由な時間がほとんどない生活を送ってきたことで、本当にやりたいことだけに残された時間を使いたいと強く思ったこと。

自分のできることをもがきながら探したことで、力を貸してくれる人は毎日通っている職場以外にもたくさんいるのだとあらためて気づいたこと。

どれも、破壊的でも攻撃的でもない、取るに足らない個人的な気づきでしかない。

だけど、それらはぼくの中の、どこかで気づいていたけれども見ないふりをしてきた都合の悪い何かを、確実にぶっとばしていった。

 

きっと、もう元には戻れない。

 

多くの人は、辛くて苦しかったこの期間に、グッバイと言う。

ぼくは、これからも続く、辛くて苦しくて、そして愛しい世界に、ハローと言う。

がんばることは、たのしいことだ。

 

 

 

なんて言ってしまうと、ブラックな労働を賞賛しているようで、きっと歓迎されないだろう。

 

 

 

本当は、がんばることは、たのしい、と言い切るには色んな条件が必要だろう。

特に、それが本当に自分自身の意志なのかどうか、というのが一番大事だけど、ここでいきなりつまずく。

いったいどこまでが自分の意志で、どこまでが誰かの思惑なのかがよくわからないからだ。

サラリーマンが仕事をがんばろうとしているとき、そもそも会社から業務としてやらされているのだから、それは完全に自分の意志かと言われたら、そうとは言えないだろう。

だけど仕事をしているうちに本気になってきて、もっと良い成績を上げたいとか、もっと技術を向上させたいとか、そうやってがんばるのは、これは自分の意志といえば、自分の意志だ。

 

会社のおそろしいところは、自分のがんばりに対して疑いを持たなくなることだ。

会社に貢献することなら、どんなことをがんばったって、がんばった!と言えるから、安心してがんばれる。

自分は何か、疑いもなく大事なことについてがんばってるのだ、と思えるのだ。

だけど実際は、そのがんばりが空回りしたり、いくら会社の貢献しても十分に評価されなかったりして、そこでぼくらは苦しむ。

 

話は変わるが、ぼくは、キャンプが苦手だ。

キャンプの準備をせっせとやって、虫がいっぱいいて清潔なトイレもない山の中にわざわざ行き、そこでうれしそうにテントを張ったり、米を炊いたりして、後片付けにも文句を言わずに黙々と取り組んで、1円の対価すらもらえない。

いったい何が楽しいんだろうと思ってしまう。

だけど、たぶんキャンプが好きな人は、何かの対価のためにがんばってるのではなく、自分の意志でキャンプを遂行することをがんばる、それを楽しんでいるのだろう。

 

まあ世の中、会社の仕事と自発的なキャンプの2つにきっぱりと分けられるものでもない。

ほとんどの人はその中間あたりで落としどころを見つけて、なんとかがんばったり、がんばらなかったりしている。

だけど、ぼくはやっぱり、がんばることは、たのしいことなのだと思う。

自分で目標を決めて、ああでもない、こうでもない、と試行錯誤して、わずかに光明が見えたとき、そこにはたまらない喜びがある。

 

問題は、そのがんばりを誰かが利用しようとすることだ。

会社のため、お金のため、家族のため、色んな理由をつけて、人のがんばりを利用しようとする。

それについて思うのは、結局、何かのためにがんばるのはやめたほうがいい、ということだ。

自分ががんばりたいからがんばる、それだけであって、それ以上の何かが、がんばることの中にあるわけではない。

だから、よくがんばったねとか、あなたのがんばりに感謝、とか言われたって何も感じる必要はない。

報酬はもう、自分ががんばった時点で与えられているのだ。