ぼくのほとんどは、塾でできている。

 

 

 

村上春樹さんがDJをするラジオ番組『村上RADIO』を子どもたちと聴いていたらビートルズの特集をやっている回があって、上の子が、ビートルズは社会の教科書に載っていると言う。

 

 

見せてもらうと、たしかに載っている。

ちなみに村上春樹さんも国語の教科書に載っている。

それで、家にあるビートルズのCDを引っ張り出して子どもたちと一緒に聴いていて、そういえば中学校の頃、塾の問題集の表紙にビートルズの歌詞がかっこよくあしらわれていたなと思い出した。

ビートルズの歌詞は中学生でもちゃんと読める、とてもわかりやすい英語だから普通に勉強になる。

最近でこそ教材に使われたりもしているみたいだが、ぼくが中学生の頃は学校の英語の時間は本当につまらなくて、何がつまらないかといえば、やっぱり学ぶ内容がつまらない。

何が悲しくて中学生にもなって童話を読まされたり、子どもたちのどうでもいい会話を聞かされたりしないといけないのだろう、と思っていた。

 

だけど塾の勉強は楽しかった。

何が楽しかったのかよくわからないけど、塾の先生は英語の構文と一緒に、大人の世界の楽しさをのぞき見させてくれた。

学校と同じように、どうでもいい男の子と女の子の会話が出てくると、塾の先生は自分の失恋の話をしてくれたり、勝手に会話の背景を肉づけして、これはジョンがヨーコの気を引こうとしているにちがいない、とか、だけどそれならこっちの言い方のほうがもっと効果的だと思う、といって別の熟語を教えてくれたりする。

あるいはとにかく厳しい先生もいて、口グセは根性で、いつも根性、根性、といって無茶な計算問題を解かせる。

この人は徹底して厳しくて、宿題を忘れた子をめちゃくちゃ叱る。

ぼくも何度も叱られて泣きそうになった。

だけど腹は立たなくて、その根性先生は本気でぼくらの成績を上げようとしていて、嫌われ役を買って出ているのがわかるからである。

あるいは休憩時間にベンチでおにぎりを食べていたら、隣に理科の先生がようとかなんとか言って座ってきて、同じようにおにぎりをコンビニの袋から取り出して食べ、一緒に買ってきたらしき缶コーヒーを飲んでいる。

変なのと思っていたが、後日、社会の授業が始まったら、その社会の先生が、最近の若い奴はよくわからん、このあいだも他の教科の若い講師がおにぎりを食べるのにコーヒーを飲んでいて、それはおかしくないかと問い詰めたら、いやけっこううまいっすよ、と言われた、何がけっこううまいっすよだ、とぼやいていて、絶対あの先生のことだと一人で笑いをこらえていたのを覚えている。

 

塾にはライバルたちもいた。

彼らは廊下で挨拶をしなかったからといって理不尽に殴ってきたりもしないし、ダサい服を着てきてもバカにしたりしなかった。

みんな寝不足で疲れていたし、服装なんてかまうヒマもなかった。

だけど授業中に当てられて答える内容で、そいつが力をつけてきているとか、逆に自分のほうが成長してきているとかがすぐにわかったし、はじめの頃は負けられんとめちゃくちゃ敵視していたやつも、最後までちゃんとしゃべったことのないやつも、ライバルであると同時に肩を並べて勉強する仲間だとどこかで感じるようになっていた。

少なくとも、オレたち友だちだよなとか、仲間だよなとか、いちいち確認しないといけないような面倒な関係性よりもずっとさわやかで、気持ちのいい間柄だった。

 

ぼくには自慢できるような豊かな文化的背景なんてなく、不毛な受験勉強を送っていた頃の思い出が、自分の柱のようなものを作っているように思う。

今のようなアクティブラーニングとか、課題解決型学習とか、そんな素晴らしいものは何もなく、ただ知識を詰め込んだりパターンを覚えたりそれらを状況に応じて組み合わせたりするだけの、現代において批判の対象となっている勉強方法だ。

だけど、ぼくはそこで、ちょっと無理めな目標でもあきらめないことや、わからないことにもとにかくぶつかってみることや、毎日の段取りを自分で決めることや、苦しいときは周りに助けを求めることや、疲れたら上手に休憩もとることや、大人との会話の仕方や、そしておにぎりとコーヒーはやっぱり合わないことを学んだ。

どれも、まったく文化的でない、豊かさのかけらもないことばかりだ。

ただまあそういうものが、ずっと変わらず自分の真ん中にあるというのは不思議なものだなあと思う。

 

だけどまあ、ビートルズだって社会の教科書におさまって、試験のためだけに暗記される単語のひとつになるような世界なのだ。

みんな、いつかは時間の流れに回収されていく。

いい年こいた大人の頭の中が塾通いの頃から何も変わっていなくたって、別に恥じる必要もないし、それをわざわざ大声でいう必要もない。

 

自分のできることをやって、あとはなりゆきに身をまかせればいい。

失い続ける人生を、生きる。

 

 

 

これまでサラリーマンをしてきて、いまは緊急事態だからしかたがないんだ、という言い方で、色んなことが許される場合というものが何度もあったなあと思う。

 

 

 

いまは大きく儲かる仕事に取り組んでいるから経費をいくらでも使ってもいいとか、いまはとにかく急がなくちゃいけないから普段の手続きをすっとばしてもいいとか、いまはエライ人が怒ってるから深夜とか関係なくスタッフを叩き起こしていいとか、そういう状況になって、周りもお祭りのようになってしまって、普段は発揮していないようなパワーを出し尽くして、でもまあ振り返ると楽しかったよねとか、いやあれはやっぱり辛かったよねとか、まあ良くも悪くも思い出となる。

 

年を取って思うのは、およそ人生というのは、程度に違いこそあれ、そういったわけのわからない緊急事態とそうではない状態が繰り返されていくのだなあということだ。

緊急事態の真ん中に放り込まれると、これまでは許されなかったようなことが突然可能になったり、急に大きな権限を渡されたりして、興奮してあちこち走り回り、色んな人たちに迷惑をかけながら事態をややこしくしていき、しかし偉大な時間という存在のおかげで物事は少しずつ、いつのまにか解決へと向かってゆき、自分もなんとなく何かをやった気になって、だけど実際にはたいしたこともせずに終わる。

終わった後に何か気づくことがあればいいのだけど、まああれは緊急事態だったし特殊なケースだったからねと心の整理をして、また毎日の雑事に忙殺されるようになり、忘れた頃にまた別の、全然違うタイプの緊急事態がやってくる。

 

そういうことを繰り返してきて感じるのは、この繰り返しの中で、目の前の強烈な刺激にとらわれてたくさんの貴重な時間と情熱をそこに費やしてしまったなということ。

そして、だけどあまり変わることなく大事にし続けていることも、ほんのわずかだけどあるなあ、ということだ。

人によれば、その自分の変わらない部分についてはじめからすごく詳しく知っていて、だからこそどんな緊急事態に巻き込まれても平然としていられたり、何が起こっても、自分のやるべきことを粛々と取り組み続けられたりするのだろう。

しかしだいたいの場合は、それはとても難しいことで、実際にわけのわからない事態、これまでの常識が通用しない状況の中でえらいこっちゃえらいこっちゃとタコ踊りを繰り返しているうちに、色んなところで恥をかいて、たくさんケガもして、ボロボロになって、だけど手の中にわずかに残った何かを見つけて、そこで気づくのだろう。

 

ぼくは若い頃、コピーライターという仕事こそがその何かに値すると思っていた。

だけど、時代というたくさんの緊急事態の連続に巻き込まれ、その中でコピーライターという職業も、広告を作るという活動も、それを一緒に取り組む仲間も全部失っていった。

じゃあぼくは何もかも失ったのかといえば、まったくそういうわけではなく、アイデアをみんなで考える、ということへの関心は増すばかりだ。

むしろ、コピーライターという仕事を失ったおかげで、そこに気づけたともいえる。

失うことの中にこそ、発見があるのかもしれない。

きっと先人も、そのまた先人も、そうやって色んなものを失い続け、それと引き換えに新しいものを発見し続けてきたのだろう。

 

 

ぼくらはたくさんの喪失を受け継いで、いまを生きているのだ。

 

会わずに言いたいことを伝える、良い方法。



在宅勤務、テレワーク、リモートワークなるものをしよう、という話になると、すぐに「本当に大事なことは会って話をしないとだめだ」と誰かが言い始めますよね。



何を隠そう、ぼく自身もそう言っていることが多いわけです。
実際に相手と会って、相手の表情を見て言葉にできずにいることを感じ取ったり、自分の熱量を相手に伝えたり、反対に相手から強い熱意を感じ取ったり、そうやって感情も含めたコミュニケーションをしっかりやらないと、大事なことは前に進まない。
そんなようなことを自分で言っている気がする。

だけどまあ、それはやっぱり間違っていると思うんですよね。
何が間違っているのかというと、人と人は直接会おうが、テレビ会議をしようが、メールのやりとりをしようが、理解しあうことなんてそもそも不可能なんです。
直接会ったところで、自分の思っていることを相手にすべて伝えられるわけじゃないし、本当の感情をすべて伝えられるわけじゃないし、まして相手の考えていることなんて完全にわかるわけがないんです。
だから、執拗に「会って話さないと」と言ってくる人がいると、ひょっとしてこの人は直接会ったとたんに拳で殴りつけてくるんじゃないかとか、はがいじめにされてイエスというまで放してもらえないんじゃないかとか、かえって不安になってくる。

まあたしかに、人によって得意とするコミュニケーション、伝達方法は違うでしょう。
おしゃべりは得意だけど文章は苦手、という人は多いし、人と人がわかりあうのに言葉はいらない、酒を酌み交わせばいい、という往年のウイスキーのキャッチコピーみたいな価値観を大事にしている人も多いでしょう。
だけど、まああまり「会って話さないと」ということにこだわりすぎず、少しは別の方法を探ってみてもいいのじゃないかな、と思うわけです。

それで、ぼくがおすすめするのは、長文のやりとりです。
長文、というともうそれだけでうわあ、と抵抗を感じる方もいらっしゃるかもしれません。
短い文章でも書くのが面倒なのに、長文なんて書けないよと。

でも、実は短い文章のほうが、書くのは難しいと思うんですよね。
短い文章の中で自分が言いたいことを表現するには、本当に自分が言いたいことは何なのかをじっくりと考えて、優先順位をつけて、そんなに大事じゃないことはどんどん捨てていく必要があって、だけどこの捨てる作業の中でほんとは大事な言葉とか、実は一番言いたかったホンネとかも間違って捨てちゃったりする。

そのへん長文は良いです。
これは不要かもなあと思うこともとりあえず言葉にしちゃって、あまり深く考えずにどんどん足していく。
足していくうちに自分の言いたいことが整理できちゃう場合もありますし、やっぱりよくわからない場合もある。
それもこれもまとめて、はいこれが今ぼくが思うことなんです、とそっくりそのまま相手に送りつけちゃう。

まあ面倒ですよ、長文読むのは。
だけど、本当にあなたの言いたいことを知りたい人ならちゃんと読んでくれます。
それで、ここは違うとかここは何を言ってるかわからないとか、あるいはあなたの書いた長文を前提としつつも全然違うテーマについて、なんらかの返事をくれます。
長文で。
で、あなたも相手の書いた、場合によっては非常に読みづらく、幸運な場合は非常に読みやすい、いずれにしたって読むのに多少の時間と手間がかかる長文と付き合います。
それでまだスッキリしない場合はまた長文でお返事を書きます。

何やってんだと思うでしょうけど、これ、みんながお酒飲みながらダラダラと無意味な話をして、なんとなくお互いにわかりあえた気になって、なんとなくいい感じの間柄になるプロセスと何も変わらないんです。
相手に何かを伝えようと努力して、相手もそれを理解しようと我慢して、なんとか埋まらないものを埋めようとして。
で、たぶんその何かは永遠に埋まらないんですけど、お互いに頑張ったという気持ちは分かち合える。
そしたら物事はちょっとは前に進むわけです。

めんどくさいと思うかもしれませんが、そのめんどくさいことをわざわざやる、そのことにしか意味はないように思います。
会って話すにせよ、長文でやりとりするにせよ、そこは変わらない。
会って話したほうが早い、という時はそのめんどくささを放棄して、無理矢理何かを相手に飲ませようとしているのかもしれません。

とまあダラダラと書きましたが、何か問題があれば、ぜひご意見ください。

できれば長文で。