誰にも、尊敬されない人生。



「クソみたいな仕事」について書かれている本が話題になっているようだ。



考えてみるに、ぼくはこれまでひとつも人命を救うような仕事もしたこともなければ、世の中から感謝される仕事もしたことがないし、自分がやらなければ誰かが困るなんて仕事もしたことがない。
サラリーマンは常に替えがきく存在であって、自分がいなくなっても現場が回るように環境を整えて、そっと退場するところまでが仕事なのである。

若い頃はそういうのが耐えられなくて、生まれてきたからにはすごいことを成し遂げたい、世の中をあっと言わせてやるんだという気持ちが強くて、それがあまりに強かったので、現実とのギャップにすごく苦しんでいた。
そうやって年を取る中で、つまらない仕事、かっこわるい仕事、恥ずかしい仕事もたくさん経験した。
今でも、特に同年代で世の中からたくさん尊敬される仕事をしている人と出会うと、とてもうらやましく感じる。

だけど、自分の仕事を「クソみたいな仕事」とはできるだけ言いたくないな、と思う。
ぼくにとって仕事とはすべてである。
会社で働いているときも、家族といるときも、ブログを書いているときも、ぜんぶ仕事だと思っている。
一生働き続けて、ああもうじゅうぶん働いたから、最後くらいはゆっくりしたい、と思いながら死んでいきたい。
そのときに、これまでのことを振り返りながら、あああれは「クソみたいな仕事」だったなあ、いやどれもこれも「クソみたいな仕事」だったよなあ、と思いながら消えていくのはちょっと気分がよろしくない。

だから、ぼくは世の中から「クソみたいな仕事」がなくなっていくことには大賛成だ。
みんなが自分の仕事を愛し、そんな自分の仕事をとおしてかかわり続けるこの世界を愛するならば、きっと世の中はもっともっと素敵なものになるだろう。

結局は愛なんだと思う。
自分の仕事だけじゃなく、相手の仕事や、まだ見ぬ人の仕事を「クソみたいな仕事」なんてけなすのではなく、誰かが自分の代わりに何かをやってくれていることを喜び、うれしく思うこと。
これからの人生は、そういうことを見つめていきたいと思う。

仕事が「いい仕事」「やりがいのある仕事」「人から尊敬される仕事」である必要はない。
そんなことばっかり考えていたら身動きが取れない。
愛のために生きていたら、そりゃあ「クソみたいな仕事」だってやらないといけないこともあるだろう。
だけど、それを外から見て「クソみたいな仕事だ」なんてけなすのはやっぱりおかしい。
まして、自分自身の仕事であればなおさらである。

ぼくは、ぼくにとって唯一無二のかけがえのない存在なのだ。



そんな存在がやることに「クソみたいな」ことなんてひとつもない。